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エマとほかの人物との距離感を描写することで、カミーユの苦悩はより見えづらくなる
また、途中から会話に加わるエマの無神経ともいえる言動を、シーンのあちこちから読みとることもできる。
上記6のカットで、クワトロは「カミーユ君が体験した」とエマにカミーユに注目するようにうながす。続く7はエマなめカミーユだが、エマは向かい側に座っているカミーユではなく、クワトロと話す。その際、エマの頭の動きでカミーユの姿が隠れてしまう。
カミーユがエマとクワトロの会話に割りこんで両親の話をしたのに、15でのエマはカミーユを無言で見ているだけで、すぐにクワトロのほうを向いてシャアの話を始める。19では、画面左にレコアに抱かれたカミーユ、画面右にクワトロが位置しており、中央にエマの頭がある。エマは、クワトロに向かってシャアの話を続けている。シーン前半では、苦しむカミーユに焦点を合わせていたはずなのに、エマがシャアの話題を持ち出して、その場のムードを分断しているかに見える。エマの頭がテーブルに集った面々を真っ二つに分けるかのような構図の19は、象徴的なカットである。
シーンの終わりで大人たちが食事に出ていき、ようやくカミーユはひとりになる。カメラはロングでカミーユをとらえつつ、彼の孤独な心情に寄り添うかのように、そっとズームで寄る。
カミーユの苦しみを描くのであれば、ひたすらカミーユだけを撮っていればいいのだろうか? そうではない。カミーユは話したいことも話せず、大人たちの会話に付き合わされる。カミーユの周囲には、絶えずレコアやクワトロ、エマの姿が映りこんでいる。そればかりか、エマはカミーユの存在を無視するかのようにシャアの話を始める。カミーユの苦悩が大人たちの事情に覆い隠されるからこそ、観客は何とかして彼の心情を確かめよう、汲み取ろうとするのだ。すぐれた映画は、人を能動的にする。
同時に、カミーユがひとりで悩むことさえ許されない複雑な社会に投げ込まれてしまったことを、休憩室のシーンは如実に物語ってもいる。立体的に組まれたカッティングは、そのまま入り組んだ社会の縮図なのである。
(文/廣田恵介)