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人気漫画が原作でも、企画にはいつも“新しい風”を入れる
── 1985年のぴえろ作品は「魔法のスター マジカルエミ」と「忍者戦士 飛影」の2本のみで、両方ともオリジナル企画でした。 布川 どちらも、玩具にポイントを置いて成立した企画です。ぴえろもロボット物にも挑戦したんだけど、やっぱりサンライズさんには勝てませんでしたね。女児向けアニメにしても、なかなか東映さんに対抗しうる作品がつくれませんでした。当時は18時~19時台がテレビアニメの放送される主な時間帯でしたから、新興の制作会社だったぴえろとしては、何とかその時間帯を狙いたい。そう考えると、オリジナル企画から人気のある漫画原作に企画が移行するのは、いわば必然でした。
── 1987年に「きまぐれオレンジ★ロード」を制作していますが、これは週刊少年ジャンプに連載されていた漫画が原作です。日本テレビ系で月曜19時30分からの放送でした。 布川 「きまぐれオレンジ★ロード」は、当初は集英社のイベント「ジャンプフェスタ」用の1本だけのアニメ化でしたが、何とかしてテレビアニメにしたいと思いました。当時のジャンプ漫画は東映動画さん、バンダイさん、フジテレビかテレビ朝日という、強豪タッグでアニメ化されることが多かったんです。その壁を打ち破るのは、大変なことです。しかし、東映さんとバンダイさんが組んで作るアニメは、「ドラゴンボール」のように、玩具になりやすい漫画原作だろうと思いました。つまり、東映さんは「オレンジ★ロード」には関心がないのではないか……。当時のアニメ市場は東映が独占的でしたから、まだアニメに熱心ではなかった東宝さんに話を持っていきました。それで、「オレンジ★ロード」の製作は「東宝・ぴえろ」となっているんです。
「オレンジ★ロード」がヒットしてくれたので、あまり東映さんが手を出さないであろうジャンプ漫画を狙って(笑)、細かくアニメ化することで、集英社さんの信頼を得ていきました。そこで出てきたのが「幽☆遊☆白書」(1992年)でした。王道パターンで考えれば東映さん向きの企画なんですが、フジテレビ系で土曜18時半という放送枠も魅力でした。いろいろなことがありましたが、どうにか当社がアニメ化権を獲得できて、しかも大ヒットしました。鉄壁だった東映さんに対抗できたという意味では、その後の「NARUTO‐ナルト‐」(2002年)に繋がる番組でしたね。
── しかし、いくら原作漫画が人気でも、いいスタッフを集めて良質なアニメをつくらないと人気は出ないような気がしますが? 布川 もちろん、原作が売れていることも大事ですが、「うる星やつら」(1981年)でも「クリィミーマミ」でも、僕はいつも新しい風を入れたいと思っていました。「うる星やつら」で言えば、若手だった押井守をシリーズディレクターに起用したり、キーになるスタッフを誰にするかは重視します。「幽☆遊☆白書」で監督デビューした阿部紀之(現・阿部記之)くんは、僕が塾長をつとめていた演出講座“NUNOANI塾”で育てた男なんです。新人にこんな大きな作品を任せるのは冒険ではありますが、本人のエネルギーのかけ方がすごいだろうと期待しました。若手クリエイターのパワーを爆発させる場を用意するのも、プロデューサーの役割です。そういう意味では、「幽☆遊☆白書」は成功した作品ですね。
── その後、「みどりのマキバオー」(1996年)など、ジャンプアニメが続きますね。 布川 「マキバオー」の放送されたフジテレビの土曜18時30分は、いちばん視聴率をとれる枠です。僕がタツノコプロで演出をしていたころ、その枠で「タイムボカン」が大ヒットしていました。ぴえろを創立したときから、フジテレビの土曜18時30分は何とかとりたいと思っていました。タツノコ出身の人間がタツノコの枠を狙うのは忍びないのですが(笑)、そこは実力主義ですよね。「おそ松さん」の元となった「おそ松くん」(1988年)では、あの枠で最高視聴率をとりましたよ。