「ハケンアニメ!」──ありえたかもしれない2010年代アニメの夢のかたち【平成後の世界のためのリ・アニメイト 第10回】

2022年06月26日 10:000

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記号的な「対決」ドラマの物足りなさ

 

しかしながら、原作にこうした奥行きを与えていた並澤の役どころは大幅に削ぎ落とされて脇役に留まるものとなり、映画の軸はあくまでも主人公である瞳と行城の凸凹コンビが、ライバルとして優位に立つ王子・香屋子コンビとの視聴率対決に挑むという、少年マンガ風のドラマツルギーに単純化されている。

そのため、瞳については「新人」「女性」という立場の弱さゆえ、ベテランの行城に押し切られてファッション誌でのPRやカップ麺とのタイアップなど、作品外のあざといプロモーション施策に振り回され、自身の作家性を尊重してもらえないというフラストレーションが、彼女をめぐる人間ドラマの主軸になっている。対する王子サイドについては、彼と初めてプロデューサーとして組む香屋子の側が、天才肌で無軌道な彼の言動に振り回されながら、まるで「エヴァ」のゼーレのお偉方のようなレイアウトで描写されるテレビ局の上層部や作画スタジオの現場との板挟みになって苦労するという対照ぶりが描かれていく。

結局、どちらの立場でも女性の側が苦労させられるというベタなジェンダーギャップの構図も含め、原作の要素を戯画的に誇張しながら再構成された本作の脚本と演出はいささか記号的で、それを超える実写ヒューマンドラマとしての深みの面は、吉岡・中村・尾野・柄本ら主役格から脇役級まで粒ぞろいの俳優陣の熱演や細部でのこだわり(個人的には、「この世界の片隅に」(2016年)、「プロメア」(2019年)等の劇場アニメでも重要な役どころだった新谷真弓演ずる「サバク」編集の白井が、瞳監督の決断を後押しするシーンの妙には特にグッときた)にのみ委ねられているという、そこそこの水準のエンタメ邦画の域に留まっている。

 

本作がドラマとして物足りなく感じるのは、2人のアニメ監督がそれぞれのアニメーション表現を追求する根本的なモチベーションが、せっかく詳細に作り込まれている2本の劇中アニメの作品性に結びつくかたちで説得的に示されていないためだ。

まず、瞳が「サバク」を通じてなぜ王子の「リデル」を超えたいと願うのかの内在的な心理が、ほとんど掘り下げられていない。これはもともと、原作では瞳がアニメの道を目指すことになったきっかけは王子の「光のヨスガ」ではなく別のベテラン監督の手がけたロボットアニメであり、だからこそ「サバク」は日常を生きる普通の少年少女がロボットで戦う作品になるのだが、映画ではこの設定を省いて憧れの対象を王子にまとめてしまったことの弊害だろう。そもそも原作では、瞳と王子の間の個人的な因縁はあまり強くなく、あくまでも同じクールの別の放送枠で放送される「覇権アニメ」候補のひとつとしてリスペクト込みの競争意識を持つといった温度感での描き方なのだが、映画では「負ければ次に監督できるチャンスはもうないかもしれない」という外在的な状況を付加することで、もともと希薄だった対立への動機をあおっているという脚本設計だ。

それゆえ、瞳自身の具体的な作家性や「サバク」をどんな作品にしたいのかという内的なこだわりについては、(劇中アニメ自体に語らせれば充分というあえての取捨選択でもあろうが)映画ではほぼ描かれていないに等しい。ただ、王子が「リデル」の最終回で、かつて「ヨスガ」でやろうとして挫折した「主人公たちを最後に殺す」という(旧作「エヴァ」や「まどマギ」的な鬱展開を思わせる)作家性の貫徹を、局やスポンサーの意向を押し切ってできるのかどうかのドラマと対照させるかたちで、子供向けの「サバク」のほうもまた完全なハッピーエンドではない、ほろ苦いエンドに変えるという結末についてのみが瞳の決断として描かれる。そしてそのことが、最終的に主人公たちを殺さないことにした王子の決断と対比されて本作のクライマックスとなるのだが、ここから読み取れるのは「お互い周囲の当初の期待とは反対の選択をした」という図式だけだ。

つまるところ、それは「作家とは俗情に抗うものである」というステレオタイプ表現に留まっており、それぞれが「サバク」「リデル」を通じてどんな価値を体現しようとしているのかという点への解像度は低い。したがって、両作を対決させる意味も希薄で、ここから王子と斎藤の属人的なキャラクター性以上の対立軸を読み取ることは難しい(この点、CDBによる批評では、本稿と同様に原作からの変更による描写不足を指摘しつつ、逆に行間をポジティブに補いながら「作品の美しさか、それとも子供のための正しさか」という対立軸を読み解いているのだが、それだけ批評の側での補完が必要ということでもあろう)。結果として、「アニメがもつ虚構づくりの魔法こそが現実を生きる力を与えてくれる」といった漠然とした一般論以上のメッセージを、この映画は発することができなかったと言えるだろう。

このあたりは、近年の「映像研には手を出すな!」(2020年)や「映画大好きポンポさん」(2021年)といった、映像制作を題材に、そのパッションのありようをアニメーション映像それ自体へのフェティッシュをアニメイトすることで直截に表現しようとするタイプのアニメ作品にも通ずる課題で、「アニメはアニメであるだけで素晴らしい」といった、言わずもがなの自己賛歌的な落としどころになりがちだ。こうした落着の仕方は、結局のところ「アニメはその虚構の力で何を描くべきなのか」という主題を見失っていることの証左でもあるだろう。

 

「リデル」と「サバク」の相克がありえた可能性

 

では2010年代前半のアニメのポテンシャルを凍結し、奇しくもそれが全日帯で覇を競うこともあるという世界線を描いた本作が垣間見せた、現在の観点からも拾い出せる可能性があるとすれば、それはなにか。

まず幾原邦彦への取材と「まどマギ」の存在感の引き写しとして作られている王子の「リデル」の方向性では、あまり革新的なインパクトは期待できないだろう。魔法少女たちが1話1歳ずつ年を重ねていくという生き急ぎのコンセプトは、ちょうど「まどマギ」をはじめとする当時的なループもの作劇への批評的反転の構図になっており、アニメ表現として本格的に追求すれば未知の領域に到達する可能性は感じられるものの、総じて「セーラームーン」「プリキュア」以来の戦う魔法少女ものの様式性を変奏したり脱臼したりするアプローチは現実にあっては飽和気味で、本作の劇中設定上も、テレビアニメにおける既知のインパクトの想起役として以上の役割は見出しにくいからだ。

したがってどちらに未知に拓かれた可能性の中心があるかと言えば、やはり主人公である瞳の「サバク」のほうということになるだろう。アニメ企画としての体裁は、2010年代までに流行した数々のモチーフの既視感が否めない点はすでに述べたが、現実に女性監督がロボットアニメを手がけたケースはざっと調べてみたかぎり「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」(1991年)の加瀬充子監督や「エウレカセブンAO -ユングフラウの花々たち-」(2012年)の数井浩子監督といったすでに確立されたシリーズでしか見当たらず、完全オリジナル企画としてはいまだ日本アニメが実現していない快挙のはすだ。

そして劇中で表現されたかぎりの「サバク」が特徴的なのは、主人公トワコ自身はパイロットではなく、2人の少年が乗り込む巨大ロボットを、みずからの音の記憶から毎回その都度生み出していく存在だということだ。兵器としての巨大ロボットを駆って外敵を撃退するという日本的なロボットものの基本フォーマットは、古典的には少年の成熟願望に即した拡張身体を獲得して社会参加に挑むという通過儀礼の隠喩として読み解かれることが多いが、「ガンダム」などのように女性パイロットが描かれる場合は、抑圧的な男社会への参入・同化であったり、「エヴァ」のレイやアスカのように人身御供的に利用される存在になったりと、どうしてもジェンダー的に劣位に置かれがちなジャンル特性がある。

その点を顧みるのであれば、ロボットを少年たちの固定的なアイデンティティにさせず、少女がそう願ったときにのみ彼らに戦う力が限定的に与えられるという「サバク」の基本設定には、ロボットアニメ史に対してかなりラディカルになりうるコンセプト性を読み取ることもできるだろう。このあたりは、劇中での瞳と彼女のマンションの隣に住む少年・太陽をアニメに開眼させるという関係ともオーバーラップ可能なので、もう一段掘り下げた描写が見たかったところだ。

 

以上のことから敷衍すれば、王子千晴の「リデル」が、現実において男性クリエイターによって「ウテナ」や「まどマギ」を通じて女児向けアニメのジェンダー表現を拡張してきた魔法少女アニメのエポックが更新されたことの引き写しだとすれば、かつて魔法少女コミュニティから疎外された経験をもつ斎藤瞳が「サバク」を送り出したことの裏には、いまだ男児向けの慣習から十分には解放されていないロボットアニメの未完の可能性を拡張するという2010年代の日本アニメのやり残しを告発する歴史の意志が、期せずして立ちあらわれていたのかもしれない。

そんな中、シリーズとして初めて女性キャラクターが正式に主人公となる「機動戦士ガンダム 水星の魔女」が、今年10月より日曜5時の枠で放映されることが先頃発表された。女性監督によるオリジナルのロボットアニメという「サバク」が提示した可能性の埋め合わせにはまだ至らないが、ありえたはずのジェンダー攪乱の可能性が作品としてどの程度の完成度で展開されるのか、引きつづき注視していきたい。 

 

【著者プロフィール】

中川大地

評論家/編集者。批評誌「PLANETS」副編集長。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査委員(第21〜23 回)。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャーを中心に、現代思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史』、共編著に『あまちゃんメモリーズ』『ゲームする人類』『ゲーム学の新時代』など。

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