「ハケンアニメ!」──ありえたかもしれない2010年代アニメの夢のかたち【平成後の世界のためのリ・アニメイト 第10回】

2022年06月26日 10:000

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ポスト・エヴァ型ロボットアニメのポピュラリティの最大化を目指す「サウンドバック」

 

いっぽう、「リデル」に対抗して斎藤瞳がトウケイ動画で監督する「サバク」はどうか。

こちらは、のどかな田舎町を突如襲ってきた正体不明の敵に対し、ローティーンの少年少女が「奏(かなで)」と呼ばれる石に何らかの音を捧げることによって出現する巨大ロボット「サウンドバック」に乗り込み、かけがえのない日常と地球を守るために戦うという、「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)以降のイメージで構成されたジュヴナイルSFロボットアニメだ。

かつて王子を担当したこともあるベテランの行城理(演:柄本佑)がプロデューサーを務め、諸事情で新人の瞳が監督に抜擢された知名度の弱さをカバーするため、声優にアイドルの群野葵(演:高野麻里佳)を起用したり、カップ麺などさまざまな商品タイアップが企画されたりと、大手スタジオゆえの宣伝展開の大規模さが強調されているあたり、基本的には「ガンダム」などサンライズ系のロボットアニメに近いマーチャンダイジングが意識されているのだろう。

ただし、本作のロボットアニメとしての特異性としては、ノックや風鈴など、捧げる音に応じて毎回異なるサウンドバックが登場することとされているため、おそらく求心力のある「主役メカ」を立てての玩具やプラモデルなどの商展開は期待されておらず、劇中でもそうした方向性のタイアップの話題は出てこない。むしろ、日清カップヌードルのCM「アオハル」シリーズで話題を呼んだ窪之内英策が原案を担当したキャラクターデザインのテイストは、「音」をモチーフにした成長劇という点も相まって、「交響詩篇エウレカセブン」(2005年)を彷彿とさせる。なので、ロボットメカはあくまでも世界の運命と少年少女の思春期の内面性を直結させる状況設定上のギミックに留め、繊細なキャラクタードラマのエモさを打ち出していくというポスト・エヴァ型ロボットアニメの最大公約数的な特徴を踏まえた作品性を、「サバク」の描写からは汲み取ることができる。

加えて、「サバク」の主人公トワコが奏の石に音を捧げるたびにその音にまつわる記憶を失っていくという物語展開には、ポスト・エヴァのロボットアニメの文脈で言えば、「ぼくらの」(2007年)のようなゼロ年代に隆盛したデスゲーム系の代償設定の名残も感じられよう。

 

そして現実のアニメ史に即したときに、より直接的な参照源となっているのが、2011年にノイタミナ枠で放送され大きな話題になった「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」だ。斎藤瞳と同様、女性のアニメ作家である岡田麿里が脚本を担当して自身の故郷である秩父市を舞台に据え、ローティーン時代の思い出を軸とした少年少女のほろ苦いグループ青春劇を叙情的に展開したことで、深夜アニメながら従来のアニメファンの枠を超える幅広い層にアピールした同作の成功イメージが、「サバク」のキャラクター配置や宣伝展開にも踏襲されているからである。

とりわけ大きいのが、原作小説では新潟県選永市という架空の市と設定されていた「サバク」の舞台設定が、映画ではわざわざ秩父市に置き換えられ、そこをロケ地として同市に所在するアニメスタジオ「ファインガーデン」所属のアニメーター・並澤和奈(演:小野花梨)のサブプロットが展開されることだ。彼女が市の観光職員・宗森周平(演:工藤阿須加)とのペアで、本作の「聖地巡礼」需要を見越してスタンプラリーの候補地を下見していくというくだりは、まさに「あの花」の勝ちパターンを事後的に再現しようとする試みにほかならない。

このようにして、2010年代にはジャンルとしてかなり力を失っていたSFロボットアニメが抱くジュヴナイル群像劇の器としてのポテンシャルをサルベージしながら、「あの花」的な童心ノスタルジーと聖地巡礼喚起型の想像力でブーストするという複数のサブジャンルの文脈を融合することで、一般向けアニメとしてのポピュラリティを最大化しようという試みが、「サバク」という劇中アニメの要諦と言えるだろう。

 

両作のハケン対決をめぐる環境と「虚構」をめぐる対立軸

 

このように、どちらの作品も2000~2010年代前半にカンブリア爆発的な多様化を遂げた深夜アニメ的なジャンル性の強いオリジナル企画のオマージュの複合体として構想されており、その想像力を全日帯という「表舞台」に引き上げることで、どちらがより大衆的な支持を得られるかという勝負が、「ハケン」として競われているわけだ。ここでは、基本的にはSNSや5ちゃんねる、「やらおん!」的なまとめサイトなど、コアなアニオタ世間内での評価と同調圧力を前提に、当該クールにおける支持作品の(主にDVDやBlu-rayソフトの売り上げを指標にした)派閥争いを示すジャーゴンだった「覇権」という言辞が、まるで「国民的アニメ」を競うかのような監督の作家性の対決に転化されてとらえ直されているとも言える。

これは実際のアニメをめぐる大状況の変化と対比すると、特に2016年の「君の名は。」ショックでもっとストレートな青春ファンタジーにトレンドが変わって以降、魔法少女や巨大ロボットといった昔ながらのジャンルアニメ様式の過去の遺物感がますます高まってしまったことを鑑みると、別の世界線の出来事のようだと言うほかない(実際、映画の中でも実在のアニメ作家を想起させる名前として、細田守らしき名は出るが新海誠は出てこない)。

現実には、本作のような意味で一般層にも支持を拡大して「ハケン」を取っていくテレビアニメは、2017年の「けものフレンズ」あたり以降は、オリジナルの新規IP企画ではあまり見られなくなってきており、本来の深夜帯での「覇権アニメ」争いは、よりコアなラノベやなろう小説を原作とする異世界転生系などの存在感が大きくなっていった感があるからだ。

いっぽう、年少視聴者にも刺さってメジャーヒットを記録するのは、「名探偵コナン」や「鬼滅の刃」のような劇場展開込みの有力マンガ原作ものに収斂しているのが現状と言えるだろう。

そうした意味で、かつての深夜アニメ然とした「リデル」と「サバク」が夕方5時枠で雌雄を決する世界線というのは、「コードギアス 反逆のルルーシュ」(2009年)や「まどマギ」、「あの花」といったTVシリーズ発のオリジナルアニメが一般層の支持を集めていった当時のアニメの「ありえたかもしれない可能性」を敷衍(ふえん)し、そのまま発展した場合の可能性を夢想したものだったとも言えるだろう。

 

そのため、この映画のドラマの軸をなす問題設定は、今となってはいささか古めかしくも感じられる。たとえば映画前半の見せ場である番組開始前の王子×斎藤の対談ショーでは、王子は司会進行の女子アナが彼のデビュー作「光のヨスガ」の功績を「アニメを一部のオタクのものではなく普通の人々が観るものに変えた」と評したことに対して、彼氏彼女とのデートとセックスに励むリア充への呪詛を交えつつ、「総オタク化した一億の普通の人々」ではなく「現実を生き抜く力の一部として俺のアニメを観ることを選んでくれる人たち」のために作品を届けたい、と喝破する。

しかしながら、2020年代の実感からすると、むしろ現代の情報環境によるコンテンツの氾濫は、リアルコミュニケーションの負荷と自分が何が好きかがわからないことによる「オタクになれない」ことへのコンプレックスこそが若い世代の強迫観念になっている面が大きくなっているようにも思われる。アニメをめぐるドラマツルギーの底に置くには、いわゆる「リア充vsオタク」の図式は、いささか古典的なステレオタイプ化が過ぎるだろう。

その点、この映画の中では、先述したアニメーターの並澤和奈と宗森のペアが、秩父で聖地巡礼の仕込みをするサブプロットの方に、唯一こうしたステレオタイプを打破する役割が託されている。すなわち、河原でキャンプをする地元の友人たちと仲良くコミュニケートする宗森に対して、並澤がねたみ心から「リア充ですね」とつぶやいたことに対し、宗森の側は「リアルしか充実していないつまらない人間」というニュアンスで受け取り恐縮していたという会話がなされ、リア充と虚構愛好者をめぐる固定観念への価値転倒がなされるというシーンがある。

それもそのはず、原作にあっては、和奈は香屋子、瞳と並ぶ各章の主人公の一角という扱いで、彼女が宗森との交流を通じて「リア充」へのコンプレックスへの背後にあるオタクの側の選民意識と偏見を内省し、アニメの虚構と現実との架け橋役になっていく過程が、王子が前半のトークショーで喝破した対立軸へのアンサーとしてディテール豊かに描かれており、むしろ作品全体のクライマックスに据えられている。

ここにもまた、まさに「会いに行けるアイドル」としてのAKB48の黄金時代や、2013年の朝ドラ「あまちゃん」の社会現象化などとも通底する、各種のコンテンツツーリズムを通じて虚構と現実の幸福な融合カルチャーが生まれ続けた2010年代前半という〈拡張現実の時代〉が夢見させた牧歌的な可能性が、本作にはきわめて純度の高いかたちで凝縮されているのだと言えるだろう。

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