総括・『天気の子』──東京論/気象ファンタジー/災後映画の視点から【平成後の世界のためのリ・アニメイト第4回】

2019年09月21日 18:000

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「天気の子」の表現論的な達成とは何か

どういうことか。ここまで見てきたように、「天気の子」という作品は、少なくとも3層からなる特徴的なトライアルのレイヤーが積み重なってできているように思う。

すなわち、第1にインディペンデント以来の新海アニメの最もベーシックな魅力である緻密でフォトリアリスティックな風景描写の発展系として「東京論」を試みるスタティックな美術・撮影処理のレイヤー。第2に「星を追うこども」以降に顕在化した宮崎駿/ジブリ的な作画の躍動感の採り入れによって雨や雲のような人外のオブジェクトを現代的にアニメイトし、ダイナミックな「気象ファンタジー」を目指す作画・CG主導のレイヤー。第3に「君の名は。」で導入された国民的な「災後映画」としての企画性や主題性を発展させるプロブレマティック(問題提起的な)な脚本・演出主導のレイヤーがあるといった具合に、制作工程を上流に遡るように進化を遂げた新海作品の「らしさ」の来歴が刻まれている。

 

このうち、前2者の「東京論」と「気象ファンタジー」が、かなり高度な調和に到達していたことは間違いない。映画序盤から中盤にかけての舞台となった街々の場面設定は、それぞれの標高差が異常豪雨による浸水でいかに可視化されるかから入念に逆算されたものだったことが、終盤のクライマックスでは鮮やかに判明していくからである。

たとえば物語の起点である新宿から代々木にかけては山手線圏内でも最も標高が高く空に近い場としての役割が与えられ、牛込台地から続く坂の下にあるK&Aプランニングは神田川の氾濫で浸水する。そして陽菜たちの暮らす田端の高台は武蔵野台地東端の最北端側にあたり、3年後には東東京の下町の水没を見下ろすスペクタキュラーな崖と化す絵作りなどは、非常に巧みだ。

東京タワーとスカイツリーという2つの塔が、映画の前半では須賀たちとの暮らしと陽菜たちとの暮らしの対照として描き分けられていたことはすでに述べたが、最後には前者が残された山の手側の陸上に、後者が水没した下町側の水面上にそびえ、変わり果てた東京の変化を示す墓標のような役目に落ち着いている。

 

こうした東京の高低差を強調する描写は、陣内秀信「東京の空間人類学」や中沢新一「アースダイバー」、皆川典久「東京スリバチ地形散歩」など、特に地形に着目した東京論の系譜とも呼応する。それを「水」のアニメイトによって巧みに浮き彫りにすることで、開府以前までは湾内の入り組んだ入江だった江戸東京の原風景を、本作は現出させてみせたのである。シナリオやメッセージの意味性以前に、少なくとも江戸東京の地誌や歴史ファンにとって、こうしたフェティッシュが追求されたことは、それだけで単純に素晴らしい。

こうしたリアルな地形の高低差を利用した映像表現は、東映漫画映画や「ルパン三世 カリオストロの城」(1979年)「ラピュタ」の時代には純粋なイメージの力による場面設計やレイアウトに依拠してアニメイトされていた宮崎駿的な「上下移動のドラマツルギー」の、21世紀的な変奏であるとも言えるだろう。

 

主題論的な失敗の底にあるもの

ただし、すでにあらましを述べたように、この「東京論」+「気象ファンタジー」の結びつきに対して、「災後映画」としてのシナリオがいまひとつ及んでいなかったことが、本作に寄せられる賛否両論の内実であろう。

本作のシナリオのコンセプトの根幹が、「君の名は。」で地方都市・糸守町を天災で喪失させた構図を逆転させ、東京の側を被災の当事者にして水没させることだったのは、監督本人の随所での語りからも明らかにされている。それは前作と同時期に公開された「シン・ゴジラ」(2016年)が、東京で3.11のような原発事故が起こった場合のパニック・シミュレーション映画としてのコンセプトを抱いていたのを、3年越しで変奏したようにも見える。そのため、「天気の子」における止まない雨を、都心で冷却されたゴジラと同様、延々と付き合い続けなければならない原発事故後の放射能のメタファーと解した論者もいる

 

だが、「シン・ゴジラ」における原発事故のように(震災を契機としつつも)あくまで人間がなした所業への文明論的批判として読み解くには、本作の天気と人柱の関係は、はじめから人間が責任の持ちようのない自然現象の領域として設定されすぎてしまっている。そのため、陽菜が犠牲を強いられるのが偶然の成り行きでしかなく、(彼らが社会と物語上の対立関係に陥るのは、帆高の銃器や児童相談所の干渉など、世界の秘密とは無関係な事情でしかないこともあって)本作の作劇では個人と社会構造をめぐるジレンマが実のところ成立していない。つまり、陽菜の役割の悲劇性を通じて、人智を超えた自然の脅威(天意)を垣間見せたいのか、弱者に犠牲を強いる社会や文明の理不尽(人為)を示唆したいのかが不分明なまま結びつけられているため、どちらの突き詰めも中途半端に終わってしまっているのだ。

したがって、本作における天災の描写を「社会」の問題のメタファーとして読み解こうとする場合は、先の杉田俊介の批判のように「狂った社会の責任をまるで自然現象のように等閑視している」ということになるだろうし、逆に「海獣の子供」のような「自然」の神秘についての叙事詩だと読み解こうとする場合は、「陽菜や帆高の決断ひとつで左右されてしまう天候のシステムは自然現象への洞察が矮小(わいしょう)すぎる」という印象になるだろう。ここに、本作への評価が、好意的な評者であっても、どうにも煮え切らないものになりがちな理由があるように思う。

 

これが伝統的な神話・伝承や「風の谷のナウシカ」(1984年)「もののけ姫」(1997年)といった20世紀の宮崎駿アニメのようなリアリティ・レベルの表現であれば、自然を表象するクリーチャーを超現実的なイメージの力でアニメイトしたり、代弁者的なキャラクターを立てたりすることで、人間社会との葛藤のドラマを、寓話的なファンタジーとして成立させることは難しくなかっただろう。

だが、新海誠が切り拓いてきた21世紀のデジタル技術に依拠した背景描画やCG・VFXで構築されたフォトリアル志向のビジュアルと、現代日本人のリアリティやコモンセンスに立脚した心理描写の機微を両輪とする本作のような世界観では、雲は雲として、雨は雨としてしか描きがたく、あまりファンタジックな造形や寓意は持たせづらい。それゆえ、かなとこ雲の上に広がる彼岸の世界の描写は気象学的な考証を大きく逸脱しない範囲の美術に、空の魚たちのアニメイトも雨粒の擬生命化に留まり、独自の生態系を感受させるまでの説得力には至らなかった(がゆえに、劇中社会での扱いも本格的な神話的世界観の復活には至らない、半信半疑のスピリチュアルな都市伝説レベルの存在感でしか物語化できなかった)。

 

要するに、現実と地続きの世界を再現できるようになった現代アニメの表現技法の進歩に対して、それに拮抗しうるイマジネーションの側の革新が追いつかなかったのである。

これは単に新海監督以下の制作陣の問題に留まらず、現代におけるテクノロジー環境の自己目的的な進化と置き去りにされつつある人間の主体性をめぐる問題にも普遍化可能で、この次元にこそ本作のトライアルが露呈した、批評的に読み解くべき課題があるように思う。

 

衰退する世界で生き抜くための「プランB」と“次”への願い

では、ここまで検証した「天気の子」の達成と限界を前提に、私たちが何を持ち帰れるのかを、最後に確認していこう。

本作の達成面として明らかなのは、2016年以後の国民映画としての「災後」のリアリティの日常化(原発事故を伴った東日本大震災の衝撃から恒常的な大地震や豪雨・台風への覚悟へ)に対応し、気象ファンタジーと東京論のディテールを結びあわせることで、20世紀のジブリ的・宮崎駿的な作画イメージ主導型の自然描写のアニメイト技法を現代的に更新したことにある。まさに本連載が主題とする「平成後の世界のためのリ・アニメイト」が、このレイヤーでは文字通りになされていると言ってよい。

日本の衰退の現実を直視しようとしない「日本すごい」的な気分がいっぽうでは根強くある中、安易な日本文化論と誤解されかねないステレオタイプ化は避けたいところだが、やはりユーラシア東端の火山列島という風土に根ざした自然観・天災観が、時代環境が変わっても確かに芸術創造の土壌となり続けるあたりは、この国の文化産物に通底する良くも悪くものアイデンティティであることは否定しがたい。

 

その結果として、ヒトがままならない天意によって文明壊滅レベルの打撃を受けたとしても、それこそ「方丈記」「奥の細道」から「ナウシカ」「この世界の片隅に」まで、それを淡々と受け止めて生きていく諦観ややり過ごしのロールモデル提示だけはやたら達者なのが、この国のローカル・コンテンツの特徴だ。そしてその条件は、とりわけ20世紀後半の敗戦後以降は、本来なら人為の所業である戦争での加被害さえ天災のように受け止め、無責任化して克服に向かおうとしない傾向として、進歩的な立場に立つ文芸批評の一派から一貫して批判を受け続けてきたという来歴を持っている。

その意味で、たびたび触れている杉田俊介の「天気の子」批判は、まさにこうした日本近代の困難をめぐる宿痾(しゅくあ。「治らない病気」の意味)の最新ループをなすものだと言えるだろう。1980年代以降の昭和末期の日本が垣間見せた先進的なポストモダン社会化の幻想が、平成30余年の国力衰退とメディア言論の劣化によって完膚なきまでに崩れ去っている現在、社会的なフィードバックとして優先度が高いのが、杉田的な愚直な近代的価値観への愚直な啓蒙であるという情勢認識に、繰り返しになるが筆者もまったく異存はない。「天気の子」は、明らかにそうした日本的・戦後的コンテンツの限界を、シナリオの根幹部分で無自覚に繰り返してしまった作品である(特に、須賀の体現する「虚構の時代」しぐさの扱いの煮え切らなさには、本作のプロブレマティックな限界のすべてが集約されてるように思う)。

 

ただ、それを踏まえたうえで、筆者が本作の物語の落としどころのすべてを否定する気になれないのは、この国の狂った現実を人為の再確立によっては正していけなかった場合の「プランB」として、衰退をも祝祭化して受け止めていくマインド・セットは、文明の小破壊が常にどこかで起こりうるこの列島のような風土においては、どうしたって不可欠なものだと思うからだ。

そしてそれは、たとえば現代のディズニーのCGアニメで描かれる「ズートピア」(2016年)や今年公開の「トイ・ストーリー4」、あるいはMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)最新作の「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」のように、人為によって社会の諸矛盾を告発し、リベラルな多文化主義の理想によってその克服を目指していくというグローバル・エンターテインメントの体現者になることなどは望めない、地球上のほとんどの文化圏にとっても適合する前提条件であろう。

結局彼らや私たちの多くは、どこまで行っても借り物でしかない輸入品のテクノロジーや社会文化制度をブラックボックス化された擬似自然として受容しながら、それぞれの事情に即したローカライズで、少しでも身の丈に合わせていくだましだましの工夫(ブリコラージュ)を試みていくしかない側の存在だからである。

 

そしてその自覚に立てば、少なくとも「君の名は。」に対する最も重要な批判には律儀に応えてみせた新海誠監督と制作陣に期待する“次”の課題は明白だろう。

そう、同一世界観で展開した「君の名は。」「天気の子」の物語の積み上げを踏まえつつ、世界に通底する天意のメカニズムの洞察に挑み、そこに対峙するできうるかぎりの人為の模索もまた「プランA」として包摂する、三部作の完結編だ。糸守町の被災の犠牲をなかったことにし、東京の水没を招来した前2作の少年たちの後先かまわぬ選択を引き受けながら、ポスト・セカイ系の人新世たる「狂った世界」で、誰がどのような社会を築いて生きていくのか。

 

おそらく、そこで鍵になるはずなのが、「天気の子」の企画当初の段階では須賀に与えられていたという気象AI研究者のような役割だ。天意の重さにウェイトを置いた今作のリアリティ水準では、そうしたテクノロジカルな人為によって陽菜をめぐる民俗学的な気象ファンタジーに対してSF的なアプローチを採ることは避けられていたが、それは見方を変えれば現時点では留保された宿題であるとも言えよう。

なぜならAI(情報技術)による自然や生命の模倣(エミュレート)こそ、人為と天意を接続する、人類が得た最大の媒介者にほかならないからだ。実際、その力によってアニメの現実模倣力が高まり、新海誠作品をはじめとする今世紀の映像制作の革新ももたらされてきている。だとすれば、その役割を物語中にも自己言及的に取り込んでいくことは、表現論的な必然でもある。

 

そのような天意と人為をめぐる、新海監督の国民映画の“完結編”を、筆者ならば観てみたい。

人為の暴走が悲劇を生んだ夏が終わり、またひとつ日常化した文明の小破壊の経験が重なった台風一過の東京で、そんな願いを新たにした。

 

(つづく)

■筆者紹介
中川大地
評論家/編集者。批評誌「PLANETS」副編集長。明治大学野生の科学研究所研究員。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査委員(第21〜23 回)。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャーを中心に、現代思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史』、共編著に『あまちゃんメモリーズ』『ゲームする人類』『ゲーム学の新時代』など。

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上映開始日: 2019年7月19日   制作会社: コミックス・ウェーブ・フィルム
キャスト: 醍醐虎汰朗、森七菜、吉柳咲良、小栗旬、本田翼、島本須美、野沢雅子、倍賞千恵子、平泉成、梶裕貴、市ノ瀬加那、花澤香菜、佐倉綾音、荒木健太郎、神木隆之介、上白石萌音
(C) 2019「天気の子」製作委員会

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