【平成後の世界のためのリ・アニメイト】第7回 ウイルス禍の時代に考える「十三機兵防衛圏」(後編)

2020年05月17日 12:000

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平成から令和へと時代が移り変わる中で、注目アニメへの時評を通じて現代の風景を切り取ろうという連載シリーズ「平成後の世界のためのリ・アニメイト」。

今回は、昨年発売されたPlayStation 4用ゲーム「十三機兵防衛圏」を、3回にわたって徹底批評するシリーズを締めくくる後編だ!

大きく時代が変わる中でリリースされた注目の1本を、中川大地が一刀両断する。

(ネタバレも多いので、あらかじめ了承のうえで読み進めていただきたい。)

「ゲーム」の書き換えという最終解決──沖野司、426、因幡深雪

ここまで13人のPCたちのシナリオを通じて見てきたように、「十三機兵防衛圏」「追想編」の物語は、戦後から2010年代末時点にかけてまでの日本の特撮・SFロボットアニメとその周辺ジャンルで描かれてきた主題やキャラクター造形、ドラマツルギーなどの膨大な歴史的類型を周到に因数分解し、それらの断片を寄せ木細工のような緻密さで整合させていくかたちで組み上げられてきた。

そこで明らかにされた最終防衛戦に臨む13人が直面する状況とは、「メガゾーン23」的なモチーフで作られた仮想の1985年(劇中におけるセクター4)に最後の人類として追い込まれつつ、「ゼーガペイン」型の仕組みで情報的にループしていた世界がいよいよ破綻するという危機に、どう対処すべきかという問題だ。その危機の元凶がオリジナル東雲諒子の絶望であり、足を引っ張るのが井田鉄也や森村千尋のセカイ系的な未練や諦観であるというふうに、「エヴァンゲリオン」的なメンタリティの残存が問題をもたらしているという構図になる。

言い換えれば、要するに、1980年代への回帰と2000年代の理知との結託によって戦後史・20世紀史を継承しつつ、直近1990~2010年代の「失われた30年」たるポスト・エヴァの時代をいかに終わらせるかという課題こそが、「十三機兵」の物語が行き着いた主題的挑戦にほかならない。

 

セクター4へのダイモス襲来を間近に控え、「追想編」の最終盤に起こる出来事は、こうしたポスト・エヴァ的障害の排除だ。まず、いよいよ機兵計画を中止してイージス作戦に踏み切ろうとした森村(先生)が(関ヶ原編の開幕状況にあったように)殺害されるが、その犯人は郷登のおかげで2188年のオリジナル森村千尋のバックアップ記憶を取り戻した千尋(子供)であったことが判明する。箱舟計画を実施した千尋≒オリジナルの森村千尋博士からすれば、今周ループまでの仮想世界での主観的延命のために現実の施設の再生機能ごと停止させようとするみずからのクローンの短絡的選択は、本末転倒の暴挙以外の何物でもなかったからだ。

その一方で、この世界の創造主の立場にあたる千尋にとって、仮想世界での郷登たちの16年の人生など些事であり、次のループでDコードそのものを除去して箱舟計画をあるべき状態に戻せばよい。そのような千尋の超越的な態度に対して、いかに自分たちが計画を引き継ぐに値する人間であるかを認めさせるかの賭けに臨む丁々発止の対話劇が、いよいよ「崩壊編」でプレイされる最終決戦の進捗と並行する時系列に突入する郷登編シナリオの佳境になる。

 

他方、最終決戦に備えた動きとして、いま・ここを生きるPCたちの生残につながる直接的な選択を探り続けてきたのが、426こと2周前の和泉十郎であり、今周ではセクター1の自動工場をハックして対ダイモス兵器・機兵の開発に成功した沖野司である。

2188年における彼らのオリジナルは、いずれも森村千尋博士と深い関係にあった人物として設定されている。和泉のオリジナルは森村博士と恋愛関係にあった軍人であり、彼女の意識が5歳のクローンに上書きされる結果になったのは、彼が恋人の記憶と人格のバックアップを箱舟計画のシステムに保存する細工をしていたためであった。沖野のオリジナルは、箱舟計画で仮想空間の居住コロニーの制作者で、そこに遊び心で2154年製の完全没入型オンラインゲーム「怪獣ダイモス」の環境管理システムを流用した天才エンジニアである。そして森村博士が提供した卵子を体外受精させて生まれた遺伝子上の息子にあたる。

このような意味で、仮想世界でのループ以前の真の“前世”たる2188年の因縁として、森村博士に起因する事態にケリをつける責任主体となるべき神話的配置が、彼らには与えられていることがわかる。

 

だからこそ箱舟計画では森村・和泉・沖野の3人のクローンがセットで一番2188年に近いセクター1(2100年代)に配置され、「追想編」で遡及される仮想世界での一番古いエピソードである2周前の地下の円盤でダイモス襲来のカウントダウンを発見する役割を果たしたのである。そこから、真相究明と問題解決に向けた一連の物語が始動する。

すでに述べたように、この時の沖野の犠牲によって、愛する森村とともにループを超えることができた和泉は、1周前の世界では最初はダイモスが敷島重工の宇宙開発用重機による侵攻だと誤解して敷島への破壊活動に走ったことで捕らえられて囚人番号の426と呼ばれるお尋ね者になる。結局、避けられなかったダイモス襲来の混乱に紛れて逃亡したのち、今度は脳内にナノマシン「インナーロシター」を持つ15人の適合者がダイモスを呼び寄せるDコードの制御鍵の持ち主となることを突き止め、セクターを渡り歩いてその全員を殺害することで滅亡を防ごうとするも、セクター2で井田を殺しかけたところで再会した森村に止められて頓挫。もう一度、セクター0経由でリセットを超えて今周の世界に降り立ち、インナーロシターの研究からこの世界の真相に気づき始めて新たな道を模索していたところで、1周前の世界での記憶を持たず井田に426が凶悪な殺人者だと吹き込まれた森村に撃たれ、肉体を失ってしまう。

以降は、セクター0にある426の人格データをドロイドに呼び出して利用しようとした井田の目論見を逆用し、如月ドロイドを奪って逃走。巡り巡ってセクター4で鞍部十郎のナノマシン内に潜伏し、彼にしか認識できない友人・柴久太の姿を見せていたほか、薬師寺にだけ話す猫・しっぽの姿となって謎のシリンジ銃を与え、彼女に15人の適合者たちを撃たせていく。その目的は、1周前のように彼らを殺してDコードの発動を止めるためではなく、2188年の沖野が作った「怪獣ダイモス」のシステムを流用しながら「必ず負けるゲーム」を強いていたDコードの制約を破り、各自の機兵を強化可能にしてダイモスに勝てるゲームルールで戦えるようにするための追加プログラムを注入することであった。これが、「崩壊編」でプレイヤーが扱う機兵強化用ポイント「メタチップ」のフィクション上の意味づけにほかならない。

 

これと並行して、沖野もまたあの手この手の探求を経て、網口・南・如月とともに軌道上のアイドル・因幡深雪(1周前の如月兎美の意識)との交信を果たし、箱舟計画と世界の真相に到達。井田が画策した機兵汚染事件の余波でテラフォーミング監視のための司令船に16番機兵ごと偶然転移したことで、ひと足先に現実世界を認識できるポジションについた因幡を導き手に(これが可能だったのは2188年のオリジナル如月兎美が箱舟計画のテラフォーミング担当の技術者であったため)、仮想世界のループに閉ざされた15人を現実世界に覚醒させることを最終目的とした具体的な作戦が立てられていく。

その過程で、沖野自身は井田が円盤に遺したドロイドに襲われ、426や因幡と同様に仮想世界での肉体を失って意識だけの存在となるが、比治山に引き継いだ12番機兵で彼とのみ交信可能になった状態で、1985年5月27日の最終防衛戦の日を迎えることになる。

 

以上のように、沖野が2100年代の自動生産技術のハッキングによって開発した「ゲームの駒(エントリー手段)」としての巨大ロボット・機兵、426が敵側の不正チートコードであるDコードを抑制すべく追加したメタチップ機能による「ルールの書き換え/ゲームバランス調整(是正)」、そして仮想世界のメカニクスにメタレベルから介入できる司令船をハックした因幡が見出した「ゲームの勝利条件(ゴール)」と、3人のNPCがゲームデザイナーとして協働したことで、13人のPCたちが戦える「崩壊編」のゲームボードの準備が整ったわけである。

それは、「無理ゲー」としての他者や現実の酷薄さを過剰にデフォルメするセカイ系やバトルロワイヤル/デスゲーム系といった1990~2000年代的な強迫にも、もはや現実性と向き合うことをやめてフィクションから“適度な障壁”としてのドラマツルギーさえ放擲して「ヌルゲー」化する「日常系」や「なろう系」といった2000~2010年代的な居直りにも陥らない、ゲーム・エンターテインメントならではの矜持に依拠したストーリーテリングにほかならない。

 

つまりは、現実を支配するメカニクスを理知によって読み解き、手持ちのリソースをフル活用してそれを攻略可能なゲームに書き換えるための介入可能性を探すこと。

現実社会を運営するルールシステムと情報技術が提供する仮想システムがいまや不可分になった21世紀のリアリティにあっては、それこそが最も説得的な「自立」や「成熟」への回路であるという模範回答を、「十三機兵」の物語は特撮・SFロボットアニメの歴史に対して投げかけてみせたのである。

 

「十三機兵」は戦後ロボットアニメの歴史的命題といかに格闘したか

かくして、「追想編」での真相究明とゲームボード準備の進捗に合わせて、「崩壊編」での最終防衛戦のバトルとドラマも順次アンロックされていき、戦いは最終局面に至る。

ループを経験した大人たちはすべて後景に引き、彼らがセッティングした盤面には、13人の少年少女たちだけが残された。ループの悪夢(ドリームタイム)から生還して現実世界において成熟する自分自身の身体を獲得するため、機兵というかりそめの身体を借り受け、太古の死者たち(滅亡した地球人類)の怨念たる怪獣の猛攻を耐え続けるという試練のあり方は、まさに絵に描いたような通過儀礼(ないしビルドゥングスロマン)の構造だ。

大塚英志「アトムの命題」や宇野常寛「母性のディストピア」といった戦後サブカルチャーと社会の関係をめぐる評論で指摘され続けてきたように、少なくとも敗戦国・日本のリアリティを体現することで大きな社会的・ジャンル的な影響力を及ぼしてきた漫画・アニメの歴史的な作品において、このように淀みなく通過儀礼の構造が成立する物語が貫徹されることは、実はきわめて稀なことでもあった。

とりわけ「マジンガーZ」(1972年)以降、少年の成長願望をかなえる「ウルトラマン」などの特撮巨大ヒーローへの「変身」を継承し、「父が科学の力で作った巨大ロボットに乗り込んで外敵を退ける」という構図で確立されたSFロボットアニメの古典的類型は、「ガンダム」以降はむしろその虚妄性・不可能性をこそ主題化するアンチ・ビルドゥングスロマンのほうが同時代的な説得力を増し、そして「エヴァ」で完全に脱構築されてしまったからである。

 

つまり、父≒神なり国家なりといった共同体の理念や正義を体現する望ましい秩序が自明でない社会(たとえばアメリカの核の傘と平和憲法の理念の矛盾を抱えてきた戦後日本)にあっては、巨大ロボットという装置は使命への忍従や他者への暴力を強いる「偽の成熟」の方便にほかならない。エンターテインメントとしてはそれに乗って戦うカタルシスを描くものの、それはあくまで仮の乗り物で、主人公自身の真の身体や実存とは切り離された異物である。ゆえに、最終的には巨大ロボットを否定し、誤った理念への同一化を懐疑する主人公のイノセントな葛藤にこそ逆説的な成熟可能性(たとえば反戦の理念とかニュータイプへの覚醒とか)を見出すという近代的な文芸性を可能にする装置として、「ガンダム」のモビルスーツ以降のSFロボットアニメ(リアルロボットもの)は再発明されたわけである。

この懐疑性の徹底の結果、さらにイメージの相転移を起こしたのが「エヴァ」であった。あらゆる規範的価値が相対化されていくポストモダン化の結果、もはや父性はデフォルトで否定されるものでしかなく、かわりに羊水に満たされたエントリープラグに象徴されるように、巨大ロボットとしてのエヴァンゲリオンの隠喩は「母の子宮」へと転換されている。いわば、ままならない他者との人間関係や社会との交わり(政治)から撤退し、無条件に個々人の全的承認が得られる場に引きこもりたいという母胎回帰的な願望だ。それが消費社会の爛熟や情報環境との結託によってある程度充足可能になり始めたことで起こる「母性のディストピア」状態、すなわち社会のアノミー(無秩序)化や、市場・情報インフラといった環境管理の最適化がもたらす無自覚な分断と排除など、人々の集合無意識に基づく欲動が制御不能なかたちで肥大化していくことへの不安を、「母」(ユング心理学におけるグレートマザーの元型)の暴走として表象したのが、「人類補完計画」をクライマックスとする「エヴァ」旧作のイメージ転換だったわけだ。

 

こうなってしまうと、わざわざ人型の巨大な工業機械に乗り込んで戦う(≒社会や国家レベルの問題に対峙する)ことと少年の成長のドラマを結びつける20世紀の想像力に依拠した活劇に、何かしらの普遍的なテーマ性を見出すことは難しくなる。21世紀以降の「ガンダム」「マクロス」の2大ブランドや「コードギアス」といったメジャーヒット作では、人型乗り込みロボットという道具立てを、人物キャラクターを装飾するアバターと割り切ることで辛うじて延命させてはきたものの、本質的にはそれはロボットアニメのジャンル性の形骸化にほかならない。

あるいは「エヴァ」お膝元のガイナックスによる「天元突破グレンラガン」(2008年)のように、「トップをねらえ!」(1988年)のガンバスターを経由して、1970年代のスポ根的な情念表現のエスカレーションを戯画化しつつ、ソフィスティケートされた宇宙SFギミックによって再解釈しながら「ガンダム」以前のスーパーロボットものに戦略的に回帰するといったアプローチはあったが、そこに復古的な様式美への退行以上の主題的達成を見出すことは難しい。

ほかにも「交響詩篇エウレカセブン」(2005年)や「STAR DRIVER 輝きのタクト」(2010年)など、さまざまな試行錯誤はあったものの、つまるところ、ポスト・エヴァの四半世紀とは、ロボットアニメがリアルな主題やイメージの更新に失敗して耐用年数切れに陥った、端的な冬の時代だったのである。

 

そうしたさまざまな苦闘の履歴から、「十三機兵」が継承したのが、中編に指摘した「ゼーガペイン」の方向性であったことは重要だ。数あるポスト・エヴァのロボットアニメ作品の中にあって、同作は21世紀的なデジタル技術の環境化を前提に、ループものの作劇流行を高度に昇華したばかりでなく、「エヴァ」が無効化した身体と成熟をめぐる難題を見なかったことにはせず、乗り込み型人型ロボットの意味論を掘り下げながら(成否はともかく)真正面からの問題化に挑んでいた稀少な作品だったからである。

「ゼーガペイン」で描かれたのは、「エヴァ」における子宮メタファーや人類補完計画といった「母性のディストピア」イメージを、「ループするバーチャル空間での日常」という情報技術的に表現された「ビューティフル・ドリーマー」型モチーフに置換しつつ、傷つき成熟しうる身体をあらかじめ失って幻体となった主人公たち(前提化された「アトムの命題」)が、いかに現実の身体と予測不可能な未来を取り戻せるのかという問いだった。この成熟する身体を取り戻すための回路が、劇中では唯一、荒廃したリアルな世界にコミットできるツールとして開発された人型兵器・ゼーガペインでの戦いにほかならないという図式だ。

いわば「どろろ」の百鬼丸のSFアニメ版とも言える擬似身体として巨大ロボットを再定義することで、「エヴァ」以降の母性のディストピアの全面化を克服対象に据え、ビルドゥングスロマンの再生可能性を模索したのが、「ゼーガペイン」の作劇構造の要諦と言える。

 

この文脈における「十三機兵」の特徴は、そうした「データ化した人間がリアルな身体を取り戻すための擬似身体」としての意味論を「ゼーガペイン」と通底させつつ、細部の演出でさらに遡及的にジャンル批評的な転倒を図っている点にある。

これは最終防衛戦前の比治山編での会話で判明する設定だが、「全長35mの格闘兵器に乗り込むなんて自殺行為だ 殴りかかるだけで衝撃は列車事故並みだよ」と沖野が漏らすように、そもそも彼の設計時点でコクピットは存在していない。13人の主人公は、戦後日本のロボットアニメの慣習に反して、人型巨大ロボットには乗り込んで「いない」のである。ゲーム中では、いかにも「ガンダム」等でのコクピット内風景のカットイン然とした演出で、なぜか裸になっているキャラクター同士の会話シーンが描かれるのだが、そのUI設計自体、実はそこがPCたちの現実の肉体が存在する保育ポッド内だったという真相を盛り上げるためのミスリードだったというオチだ。

つまりは「エヴァ」の子宮モチーフをより直接的に踏襲しながら、巨大ロボットというモチーフをデジタル化以降の技術観でメタにとらえ直し、そのうえで情報的なアバター(化身)として依代化している。それゆえ、薬師寺がシリンジ銃で撃った跡にできた身体マーカーをスライドするPCたちの機兵起動シーンは、どちらかというとロボットアニメのさらに源流である特撮ヒーローの「変身」シーンに近い。

このように「十三機兵」は、特撮・SFロボットアニメの歴史的な引き出しを総動員しながら、ポスト・エヴァの時代条件に全力で抗ってみせたのである。

 

と同時に、明らかに映像でのアニメイトの快楽とはなじみづらい、ここまで手の込んだ文芸設定をしなければ説得的な通過儀礼を再生できない点に、もはやジャンル史をふまえた正統的なロボットアニメが映像表現を通じたアニメ企画としては成立しづらい袋小路にあることが、逆説的に示されているとも言える。

その意味では、「ゲーム」として作られた「十三機兵」は、ロボットアニメ「でない」ことによって、ポスト・エヴァ時代の困難に打ち克ち、ロボットアニメの可能性の中心を最も濃密なかたちでリブートすることができたのかもしれない。

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