frfrさんの評価レビュー

»一覧へ

「それでも 母になる」

観賞手段:劇場
ネタバレ
この映画を初回に見に行った時、PA作品の総決算としての当然の期待は当然だが、不安もあった。
あのマリー監督と、ある意味彼女とともに始まり、総決算の全権を委ねたPAの「覚悟」がどんな映画なのか。

 岡田麿里氏は、嵐に突っ込んでいく豪腕機長だと思う。
強烈な舞台づくりと、情け容赦の無い展開で気をもませつつ、ハードランディングで突拍子もない着地をする。
あっけにとられつつ、怒るか拍手か?齟齬は有ったか?
なんにせよ、俺は座席にすがりついて知らないドコかにたどり着いてる、そんなフライトに何回も乗り合わせてきた。

 マリーの物語は、時折、私達が好むような、舞台設定や心情を練り上げた上での進行の説明をがっさり省く。
「こうだとすれば辻褄は合う、…しかしそんな強烈な話であれば、その進行をこそ、セリフや演出で巧みに見せて欲しい…
おそらく、宮崎氏や富野氏なら1カットで進行を変化させて、唸らせてくれたのでは?」
「逆に言うと、庵野氏はそこに注力して、喝采を浴びてきたタイプであろうか?」
「主観が切り替わるのが難しい。」
強い印象と共に、戸惑いも残る。

説明不足、とは、「説明できない、考えてない、情報が整理されていない」脚本や映像を指すべきで、
「敢えて説明しない」をここまで突き詰めるのは、逆に凄技である。
今までの岡田麿里作品は、ずっとこの方向を目指して来たように思う。

 今作はどうだったか。
一例を上げる、何故、目立つ民族衣装を来て戦場に出るのか、それは男の狂気の表現でありながら、再開した母子の、互い立場の表明としても機能した。
戦場の統制が取れていないのも描かれた。
おそらく尺の為に主観が切り替わる戸惑いは惜しいが、情報の交通整理にミスはない。
豪腕の影で緻密な整理とギリギリの目配せが行われている。
こうして私達は、わけも分からず事件に居合わせた彼らと同じ様に、次々に事態に直面していく。

 この「口数の少なさ」にはもう一つ、抑制としての効果も見せたと思う。
妖精の様な外部者に育てられた苦労や逸話、長期間の離別、差別や戦乱、通常であれば、様々なドラマが必要なところだ。
敢えてそこを危ういまでに想像に任かせ、多くの事件の中でも積み重ねられた普通の親子の一コマを拾い続けた。
例えば、離別の数十年間、エリアル一家や村人が何か遺していないか、ひきこもごもの宝庫だろう、説明も欲しい。
だが、こうした話のギミック等は極力省かれる、その厳しさや彼女らの見た光景は丁寧に見せながら、特色を用いたドラマは敢えて描かない。
普通の親子の日々、景色、最後に渡される花。
二人で乗り切って着実に積み重ねた「普通」を描き、英雄や妖精の物語の部分は、華やかに垣間見せこそすれ、極限まで削ぎ落とす。
この世界設定と抑制が逆説的に作用した結果、私達に残された強い印象は、親子が懸命に織り上げた普通の日々の記憶となった。

 後述するが、この当事者達に寄り添うための寡黙さは、もう一つの親子の出会いと別れにおける
「奪われた本来の絆を、文字通り一瞬で取り戻す」
驚くべき光景を、より鮮烈にする荒業も成し遂げている。

 前置きが長くなった。
思春期を主人公にし、諸々の変化を描くのが主戦場のジャパニメーションにおいて、偉大なる日常の守り手である母親は、やや邪魔者扱いだ。
半ば偶像化された、産まれた時から母である存在か、そうなろうとする者として描かれる。
空気扱いも当然となり、行き過ぎて消滅すらし、舞台設定の空虚さに拍車をかけていた作品があった事も否めない。
いわば、「母親機関説」とでも言おうか。

 良い意味でのアニメ漫画の作品の軽さ、浮力、とも言える。
だが、母親、ひいては家族をオミットするのは、作品の欠陥だとする劇作世界の通念は根強い。
人生の糧を得るのが観劇だとすれば、青春や恋や英雄の物語しか与えられなくて十全か?と問われれば、確かに一定の説得力がある。

当たり前だが、母親とて最初から母ではない、恐るべき葛藤と試練を経て、自分一人で母親でもある女になる。
人生を生み出す家族は、親になる覚悟が作り上げるものだ。
もし、アニメ・マンガが普遍的な人生を描こうとするなら、現状の扱いの分量は、弱点、ミッシングリンクかも知れない。
とまれ、アニメ・マンガの視聴者を引きつけるのは、やや厄介なテーマだ。

その荒地を耕し続ける人が岡田麿里氏であるのは、TTでの、ある母親同士(片方は母の代理人)の相克に始まり、代表作とされるここさけ、そして、母になるものを描いたいろは劇場版に至るまでの作品を見れば、異論は無いのではないだろうか。

 今作は、家族作りという、人生の普遍的な部分を、無力で不向きな存在が母になる事を切り口に描いた。

 身も心も空っぽになった異種族の少女が、自分が諦めれば共倒れになる存在として赤子を拾い、育て共に生きて見送るまでの話だ。
最初、私達は、救命手段として赤子を受け入れざるを得ないと理解する。
同時に、それがとてつもなく困難な事もまた考える、この娘に親が出来るのか…無理ではないか…。

 ここで彼女が無力な娘で、かつ異種であることは重要だ。
もし、ミドが拾っていたら私達はカーチャン頑張れと外側から思ってしまう。
そして、もしイオルフが社会に溶け込める存在であれば、幼い母娘の長い孤立も不自然になる。
この宿命は、母の側が、息子の将来の為にも去らなければ無くなる原因の1つとなる。
障害を超えて親子として完遂された人生は、親子とは一体何か、をより鮮明にする。

 何もかも失ったマキアにとって、文字通りエリアルは全てであり、生きる気力をつなぐ絆となる。
出産は人生を賭ける覚悟と引き換えにこの絆を手に入れる戦いだ。同時に、ある種の約束も与えられる。しかしマキアにはそれすらもない、それでも私達の前で、二人は確かに喜怒哀楽を共にし親子になっていく。
ここで出産を経ていない事は、実は、男性の目線でも彼女の心情に寄り添う事を可能にしている。
母親の側からの、我が子への思い。
子から母へは、誰にでもわかりやすい、だが、今作はこの仕掛で、普遍的だが実は見え難い、逆側の感情の中身を、誰の目に明らかにする。
彼女が耐えに耐えて口にした言葉、「エリアルが喜ぶと私も嬉しい、悲しむと私も悲しい」
こんな母ならではの思いを、この映画を通し、誰もが自分たちの心情として感じ取る事ができる。

同時に、「母親は泣いてはいけない」という命題も被せられる。
序盤の、橋の上の素晴らしいシーンだ。
ここで、私達は普通の母親の「覚悟」を思い知らされる。
加えて、死の悲しみをエリアルと共にしながら、異種であるが故に共に人生を送れないと言うさらに恐ろしい悲しみを、まだ頼りない母親だけが背負った事も示される。
2つの覚悟が絡み合って私達にものしかかり、母なるものの心情をより感じ取ることが出来る。

「泣かない」日々の積み重ねは、駆け足で表現される。
母子二人、反乱の民としての流浪の生活、その厳しさは示すが、乗り超えるドラマは抑える。
過度に不理解や苦労を描くと、テーマがブレてしまう。
乗り越えてきた苦労は、親子の行先についてラングと語り合う時も飄々として見せるマキアをみれば、垣間見るに十分だ。

ラングがまた良い、マキアの悲しみを分け合えた存在ゆえに、親子の人生に寄り添って歩むに足る存在である。
マキアは覚悟の代償として、強さとこんな「悲しくない別れ」を手に入れていく。

 終盤、幾多の生命が、己の尊厳と生存を賭けて激突するシーンが、大変な迫力で描かれる。
この戦いに意味はあるのか、思惑は?主題になりがちな、そんな事すら敢えて描かない。
個人は、出来事を受け入れるしか無い。
男も女も、覚悟しなくては、普通の人生を始める事も織り上げる事も出来ない。
悪役も正義も示されない、故に、皆ただの子であり父である事が逆に分かる。
晴れ舞台の様ですらある戦場、闇に落ちたクリムを描く為の政治的駆け引きの描写や、制作陣が極限まで考証し描いたであろう、互いの戦術、建物、新兵器。
いずれも同じく、多くを語られない。
その美しさ格好良さを見せられ、大きな物語にしがみ付きながら、私達は、多くの登場人物たちと同じ様に、自らの体験としてそれを驚き眺め、受け入れ、翻弄されるしかない。
私達は、幼子を抱えて、手の職も奪われ、定住すら出来ない日々を受け入れ生き抜くマキアの立場に近づいていく。
PAとマリーの長年のタッグあればこそ、なし得た演出に思える。

 全てが終わった後、わずか数年の成長時代の印象は揺るぎなくなる。
ともすれば退屈な日常を、遠く思い出せる事の奇跡、それをなし得たのが何だったのか、マキアとエリアルは何になれたのか。
私達はたった2時間で、マキアたちと共に数十年を過ごす、無意味なんかじゃない、と心底思える。
こんな映画体験はそうそうない。

 一方で、僅かな思い出すら許されなかった実の親子、レイリアに戸惑う声もある。
飛び降りて死ぬつもりだったのか?我が子を戦場に見捨てるのか?クリムに対して酷くないか?
 彼女にとっても、娘は全てになっていた、マキアと同じくゼロから、いや、彼女の場合、全てを犠牲にした結果の我が子だ。
だが軍隊を連れた遠い昔の想い人は、全て無にし復讐すると言う。
即座に彼を説得出来ねば、戦場での復讐は直ちに実行される。
だが、互いに縋ってきた相手がすれ違う絶望的な距離のまま、娘に会いたいと懇願しても一蹴される。
若かった恋は終わっていたのだ、執着して男は終わる。
過去に戻る道は無かった、他に行く宛など無い、娘の所に行くしか無い。
序盤の、赤子の声を聴く直前のマキアと同じだ。
だが、全てを失って出会った我が子ともまた、すれ違っている。
少なくとも、既に亡国の宿命を背負った我が子とやり直す道は険しい、一緒に残って嘆き合う事で、母娘は救われるだろうか。
母親として、自分と同じ様な境遇に至るであろう我娘にしてやれる最善は?

そこへ「飛んで」と懐かしい声が聞こえた。
「自分のことなど忘れろ。」
私は何にも縋らない!
長い不遇の中で、自分らしさと誠実さを失わず、最後に自分に会いに来た唯一の絆は、
その誇り高く美しい姿を鮮烈に遺して、自ら飛翔して去った。
これから亡国の王女として生きていく上で、この光景程の拠り所はない。
 そして傷心の母親にもう1人の母親が言葉をかけるのだ。
「忘れるわけがないよ。」
物語の寡黙さは、絆も正解も1つじゃないというメッセージだろう。

 さて、この映画のあるべき母親像を、時代に合わないという人も居る。
この映画は主張しない、感動の物語でもない、ただただ、真摯な人生を描いているだけだ。
描かれた人生に嘘はない。誰もが何かを見つめ直すだろう。

 同時に思う、感動の物語という売り文句も、似合わないと思う。
この映画の力は、感動させる仕掛故の力ではないと思うからだ。
やがて親になる者、なれなかった者、子である者、あれなかった者、この物語は、皆の日々を豊かにする何かを遺してくれる。
アニメがこんな普遍的な力を持ったのは本当に凄い。
敢えて言えば、世界設定ではなく、もっと、そこを全面に押し出して宣伝する方法も有ったのではないか。
とにかく、またこんなアニメに出会いたい。
frfr
frfr
ストーリー
5.0
作画
5.0
キャラクター
5.0
音楽
5.0
オリジナリティ
5.0
演出
4.5
声優
5.0
5.0
満足度 4.5
いいね(0) 2018-04-16 19:54:54

ログイン/会員登録をしてコメントしよう!