【平成後の世界のためのリ・アニメイト】第5回 ウイルス禍の時代に考える「十三機兵防衛圏」(前編)

2020年05月15日 16:020

ADVとしての「追想編」が追求したハイブリッドな作劇特性

「十三機兵」の「追想編」で描かれるのは、「崩壊編」で13人の主人公(プレイアブルキャラクター:以下、PC)たちが機兵を得てダイモスの襲来への最終防衛戦を戦うシミュレーションバトルのユニットとなるに至るまでの、1人ひとりの来歴をたどっていく物語である。ゲームの構成として、まずはプレイヤーが何も情報を持たない状態でチュートリアルを兼ねた「崩壊編」の緒戦がスタートし、その戦闘場面から新登場PCのシナリオが順次解放され、彼らの回想シーンとしてタイムラインを遡りながら描いていく倒置叙述のスタイルが採られている点が、本パートに「追想編」の名が与えられているゆえんだ。

こちらのパートについても、いったん20年前の「ガンパレ」と比較しておこう。「ガンパレ」の「学園モード」の場合は、22人の登場人物の行動が群体AIによって制御され、それぞれが予測不可能な関わり合いをすることによって、プレイヤーごとにまったく異なる(ただし偶発的で完成度は低い)ストーリー体験が生成されていくという擬似オンラインゲーム的な創発性が何よりの主眼であった。

対して本作「追想編」の場合は、チュートリアル後は13人のキャラクター別に細かく分割されたシナリオを誰からどんな順番で体感していくかの任意性こそ(ストーリーの進行管理上、一定アンロック条件の範囲内で)プレイヤーに与えられているものの、最終的に展開されるストーリー内容そのものは同一である。ここには、かつては「未知のメディア体験」や「プレイの自由度」をもたらすゲームメカニクスの新奇性の追求こそが至上価値だった発展途上期の期待の底が割れ、あくまでも作り込まれたシナリオを効果的に提供するインタラクティブ・フィクションの演出技法としてのみゲームシステムを活用する、ゲームジャンルの爛熟がもたらす割り切りの相が見て取れるだろう。

 

そしてビデオゲームとしての表現面で、本作を圧倒的に際立たせているのも、こちらの「追想編」のほうである。というのも、3DCG全盛の現代ゲームシーンにあって、ヴァニラウェアという開発会社のアイデンティティとなっている、緻密でフェティッシュな2Dグラフィックスによるサイドビュー視点のアニメーション表現が、従来作のようなバトルアクションではなく、操作キャラクターでじっくりと画面内シンボルを調べていくクラシカルな探索型ADV(例えば「ミシシッピー川殺人事件」(1986年)など)を彩る純然たる演出技法として、惜しみなく投入されているためだ。

ただし、本作のシステム的な特徴として、画面シンボルの探索やほかの登場人物との会話だけでなく、その時々のPCが直面するキーワードを選択することでモノローグでの思考や回想が行われる「クラウドシンク」というモードで物語のかなりの部分が進行し、時系列が錯綜する複雑な作劇を可能にしている。いわば、1980年代的な2D探索型ADVのビューの中に、2000年代ノベルゲームに近い1人称的な語り口がハイブリッドされたような形式だ。

 

これにより、基本的にはシナリオテキストさえあれば話が進むタイプの電脳紙芝居の延長線上にありながら、やたら緻密に動く複数のキャラクター図像が背景美術の前でからむ小芝居を見せ、総じて主役級の豪華なアニメ声優陣がフルボイスでの会話と独白を繰り広げるのを客観的に眺めるという視聴覚体験が、本作のナラティヴに独自性を与えるかたちになっている。

この語り口は、地の文も含めた言語描写でビジュアル以上の内面的な“エモさ”でプレイヤー≒主人公の一体感を醸成しやすいラノベや純ノベルゲームとも、コマ割りやカメラワークなどの視覚文法を駆使して運動と情動のダイナミズムを編集していくマンガや(アニメを含む)劇映画とも異なり、さしずめ演劇やオペラのそれに近い。つまり、局限された舞台での会話劇によって登場人物同士の入り組んだ関係性を掘り下げやすい、フラットな視点からの歴史群像劇や理知的なSF・ミステリーに適したドラマ特性がある。また、あらゆるストーリー展開が登場人物の周囲数十m程度の範囲で切り取られた書き割りの(舞台用語で言うところの)「場」の中でしか進行しないため、劇中世界をどこか閉塞的で作り物めいて見せる効果を持っているとも言える。 

 

「1980年代的な願望」という出発点──鞍部十郎と冬坂五百里

ゆえに「追想編」のシナリオは、こうした舞台劇的なルックがもたらす俯瞰的な作劇特性を生かしながら、13人がそれぞれの出自に隠された謎と世界そのものの秘密を、自己言及的に問うていくものとなっている。

その問いかけのベースラインをなすのが、プレイヤーが最初期に操作できる主人公にあたる鞍部十郎(CV:下野紘)と冬坂五百里(CV:種崎敦美)の男女だ。1985年の咲良高校に通う、最も「普通」の1年生として出発する16歳のこの2人が、実はダイモスとの戦いの謎をめぐるキーパーソンの同一遺伝子体であることが、相対的により多くの情報を持つほかのPCたちとのからみの中で判明。その事実と向き合いながら、世界を守るための主体性を確立し、最後にみずからの搭乗機兵を起動して戦いに臨むというのが、「追想編」の基本的なストーリー構造である。

特にスタンダードな視点主人公としての役割を与えられている鞍部について特筆すべき属性が、SFアクションや怪獣特撮ものが好きなビデオマニアという初期設定だ。そこで序盤に仲良しのクラスメイトとして登場する柴久太(のちに十郎の正体に関する重要な存在であることが判明する)から、1954年の第1作から続く怪獣特撮「ダイモス」シリーズ(明らかに「ゴジラ」のオマージュである)や、さまざまなSFドラマのビデオを借りることが、劇中での鞍部の自己発見の伏線になっている。

言うまでもなくこれは、ビデオデッキの普及で急速に新旧の映像ソフトの共有が進み、SFや特撮・アニメを系統的に偏愛する「おたく」文化の裾野が拡大していった、1985年という時代の空気感の表現にほかならない。ここには明らかにディレクターの神谷盛治らの原体験が刻まれており、前節で述べたような特撮・SFロボットアニメの映像的記憶のアーカイブをみずからのアイデンティティとして再編しようとする、「十三機兵」という作品の強い自己言及的な姿勢が示されていると言えるだろう。

 

他方、本作の正ヒロイン然としたビジュアルを与えられた冬坂五百里のシナリオでは、食パンをくわえ「ちこく、ちこく」と焦りながら登校したところで謎めいた男子・関ヶ原瑛(CV:浪川大輔)にぶつかりひと目惚れに落ちるという、1985年時点の感覚でもだいぶ露悪パロディ気味なラブコメ少女マンガの類型を堂々とやってみせた幕開けをはじめ、当時の女子中高生が親しんだカルチャーや時代風俗が、鞍部と対照をなすかたちで表象されている。

とりわけ物語にとって重要なのは、クラスメイトの沢渡美和子、如月兎美(CV:M・A・O)との3人組で放課後にクレープの買い食いなどの時間を過ごす中、他愛ない恋愛トークなどにまぎれて登場する、“前世”の記憶を見るという設定だ。これは少女雑誌「マイバースデイ」などを中心に占い・おまじないブームが一世を風靡したり、オカルト雑誌「ムー」の投稿欄などで自分が何か特別な存在の生まれ変わりであると主張する「前世少女」が登場したりといった、1980年代半ばの(いささか自意識をこじらせたタイプの)少女文化の空気感の表現にほかならない。

言うなれば、高度消費社会の到来がもたらした〈虚構の時代〉の真っただ中にあった少年少女たちの思春期ならではの妄想が、もし真実になったらどうなるかという「嘘から出た実(まこと)」式の願望充足的なシミュレーションとして、鞍部と冬坂のシナリオは着想されているわけである。

 

20世紀フィクション全体の包摂を志向する欲望──比治山隆俊と南奈津乃

そんな1980年代的な思春期男女の「普通」を座標原点としてプリセットされた鞍部と冬坂のシナリオに対し、「十三機兵」の世界観の振れ幅を提示していく役割を果たすのが、3・4人目のプレイアブルキャラである比治山隆俊(CV:石井隆之)と南奈津乃(CV:佐倉薫)である。

比治山は、劇中主舞台の40年前にあたる第二次世界大戦下の1940年代、対米本土決戦の秘密兵器として開発されているという機兵のパイロット候補生だったが、機兵計画の機密を握る堂路桐子こと沖野司の足跡を追ううちに、謎の装置のタイムスリップに巻き込まれて1980年代にやってくるという男だ。そのため、戦中の人物としての言動の時代錯誤感や、女装姿に惚れてしまった弱みで終始、沖野に精神的に攻められ続けるソフトBL感、さらに戦後の世界で食したやきそばパンの虜になって異常な偏愛ぶりを見せるようになるなど、作中きってのコメディリリーフとして描かれていくことになる。

本稿の観点から重要なのは、彼のシナリオを通じて、日本の特撮・ロボットアニメの想像力の何よりの原点である敗戦のトラウマをも、律儀に劇中のモチーフに取り込んでいることだ。なにしろ、機兵計画に携わる企業が「敷島重工」と、「鉄人28号」(1956年)の敷島博士からのそのままの引用(正確には、敷島重工という同名企業まで登場するのは2004年にリメイクされたアニメ版)であり、同作が抱えていた戦前・戦中の冒険科学小説からの脈絡までが明らかに視野に入れられていることがわかる。つまりは鞍部十郎編が体現する1980年代的な願望のさらなる歴史的古層として、秘密の科学兵器による戦局の一発逆転を夢見た軍国少年たちの1940年代的な願望を、比治山隆俊編は下地塗りしたのである。

 

対する南奈津乃編でも、比治山編同様にタイムトラベルものとしての物語が展開されるが、こちらはベクトルが未来に向かう。鞍部や冬坂の隣のクラスの友達である南は、スポーティーな陸上部員でありながら(おそらくは細田守版「時をかける少女」(2006年)の主人公像の踏襲だろう)、「E.T.」(1982年)ばりの宇宙人とのハートフルな邂逅を夢見てやまない宇宙SF好き少女として造形されており、1980年代的願望のまた別のバリエーションの体現者である。

その願望をさっそく充足する存在として、彼女はなぜか部室に紛れ込んでいた自律行動する小型ロボットと遭遇。地球に取り残されて母星に帰りたがっている宇宙人だと思い込み、「BJ」の名を与えて、彼が発する片言のメッセージに即して行動をともにしていったところ、比治山同様のタイムトラベル装置で80年後の世界に転移。まるでH.G.ウェルズの「宇宙戦争」(1898年)で描かれた火星人が操る戦闘機械トライポッドを彷彿とさせる巨大な怪獣の襲来を受け、2060年代の世界が廃墟と化している終末の光景を目撃することから、南の物語が始まる。

このあたりのオマージュ系列には、戦時日本の情念に連なる比治山編との対比で言えば、BJを狙う特務機構の黒服集団をMIB(メン・イン・ブラック)になぞらえたりと、ロズウェル事件などを機に戦勝国・アメリカにおいて冷戦期ならではの陰謀論的フォークロアとして膾炙した異星人・UFO譚のモチーフが採り入れられており、鞍部編の特撮・SFスペクタクルや冬坂編のオカルト都市伝説などに隣接する、さらなるサブジャンルが押さえられているわけである。

(中編につづく)


■筆者紹介
中川大地
評論家/編集者。批評誌「PLANETS」副編集長。明治大学野生の科学研究所研究員。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査委員(第21〜23 回)。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャーを中心に、現代思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史』、共編著に『あまちゃんメモリーズ』『ゲームする人類』『ゲーム学の新時代』など。

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