【平成後の世界のためのリ・アニメイト】第5回 ウイルス禍の時代に考える「十三機兵防衛圏」(前編)

2020年05月15日 16:020

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平成から令和へと時代が移り変わる中で、注目アニメへの時評を通じて現代の風景を切り取ろうという連載シリーズ「平成後の世界のためのリ・アニメイト」。

久々の更新となる今回は、昨年発売されてコアなゲームファンの間で大きな話題を呼び、PlayStation用ゲーム「高機動幻想ガンバレードマーチ」以来20年ぶりにゲームとして星雲賞にノミネートしたPlayStation 4用ゲーム「十三機兵防衛圏」を、3回に分けて徹底批評!

大きく時代が変わる中でリリースされた注目の1本を、中川大地が一刀両断する。

(ネタバレも多いので、あらかじめ了承のうえで読み進めていただきたい。)

2019年下半期のアニメ映画状況──世界が変わる前の風景

平成後の現代日本に降りかかる人為と天意をめぐる問題設定をめぐって、折々の話題の国産劇場アニメをゆっくりめに季評してきた本連載。前回、昨年夏には天災が常態化した日本のリアリティを描いた「天気の子」を取り上げて以来の半年余で、まさに天意と人為が入り乱れた新型ウイルスのパンデミックによって、私たちの世界は信じられないほどの変貌を遂げてしまった。
総括・『天気の子』──東京論/気象ファンタジー/災後映画の視点から【平成後の世界のためのリ・アニメイト第4回】

SNS等でも大いに話題になったように、かつて「AKIRA」(1988年)が描いた東京オリンピック中止の「予言」の思わぬかたちでの成就をもともなった依然進行中のこの厄災が、アニメをはじめとする文化芸術の制作基盤をさえ脅かしている中で、はたして人類社会にどんな影響をもたらすことになるのか。

本記事公開の5月15日現在、日本での感染拡大は小康状態に入りつつあり、緊急事態宣言も徐々に解除されていく方向にはあるものの、この先に待ち受けるのが、危機を乗り越えてのアフターコロナの時代か、新型ウイルスによる被害が一定規模で常在化していくウィズコロナの時代なのかは、様々なレベルの議論が錯綜しており、まだまだ計り知れない。

 

やがて明確化してくるだろう変貌に向き合う準備のためにも、世界がこうなる前の脈絡を、ここでは改めて思い出しておこう。

時計の針を2019年に戻せば、国内の劇場アニメにとっての豊作年で、特に前々回に取り上げた上半期の「プロメア」「海獣の子供」「きみと波にのれたら」から「天気の子」までは、同時代の私たちの社会のありようを照射する作品としても、かろうじて語るに値する表現論的・主題論的な読み解きの余地があった。
「プロメア」「海獣の子供」「きみと、波にのれたら」が示す2019年アニメ映画の現在地【平成後の世界のためのリ・アニメイト第3回】

だが、7月の京アニ放火事件から、あいちトリエンナーレ騒動に至るまでの人為の暴走によって、2019年の夏から秋にかけての国内文化をめぐる雰囲気がきわめて陰鬱・殺伐になってしまったこととも相まって、残念ながらこのテンションは秋には途絶えてしまったように思う。

 

流れ的に、本連載の脈絡で取り上げるべきは、9月公開の「HELLO WORLD」や10月公開の「空の青さを知る人よ」だった。

簡単にポイントだけ振り返っておこう。

前者は「ソードアート・オンライン」シリーズの伊藤智彦監督、グラフィニカ制作による3DCGベースの表現特性を生かし、過去の現実を鏡像として記録したミラーワールド型の仮想現実世界という道具立てと、野﨑まどが手がけるどんでん返し型のシナリオ設計で、少年主人公による古式ゆかしいジュヴナイル・ラブストーリーの強度を高めようとしたSF仕立ての「ジェネリック新海誠」作品の一変種。

後者は、長井龍雪・岡田麿里・田中将賀のトリオ「超平和バスターズ」による「秩父三部作」のトリを飾る作品にあたり、ちょうど第1作の「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない」の構図を男女逆転した図式で、少女主人公と売れないバンドマンになった10余年前の想い人の幽霊(生き霊)の邂逅が、姉との倦(う)んだ家族関係や地元コミュニティを切なさをもって再生させてゆく、ライトファンタジー仕立ての青春ドラマだ。

それぞれ異なる制作文脈と表現面でのフェティッシュを志向した作品ながら、一般俳優のキャスティングや、Official髭男dism、あいみょんといった若年層向けの流行シンガーの起用など、いかにも2016年の「君の名は。」以降の青春ラブストーリー路線を踏襲して劇場興行としてのターゲティング拡大を目指す企画性は相通じている。

 

だが、そのヒット路線志向のパッケージングと各々のクリエイターが目指す作家的なこだわりとのズレが、奇しくも力点の置かれた作劇モチーフにあらわれてしまっていることもまた、両作の共通点と言える。

すなわち、どちらも恋人を失ったり夢破れたりしたあげく、やさぐれた大人になった男性メインキャラクターが、思春期のピュアな少年性をもった10年程度前の過去の自分自身に出会って渇を入れられることで癒やされるという物語構造になっていることである。

これは前回取り上げた「天気の子」の須賀の造形にも通ずるが、ここには要するに、若年層に向けた真正のジュヴナイルというよりも、1980~2000年代に多感な時期を過ごした中年世代が「かつて(虚実を問わず)輝いていた青春」を懐古する、作り手と、市場を支えるアニメファン層とが自己憐憫的に結託するモードがあると見るべきではないだろうか。

 

このように世界の潮流に比して「若年層向けに見せかけて実際は中年向け」な日本アニメが多すぎる問題については、12月に「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」を公開した片渕須直監督が、物議を醸したインタビューでも指摘していたとおりである。

これが文芸批評の文脈で頻出する「12歳の少年」(マッカーサーが戦後日本の未成熟さを評した形容)の、相も変わらぬリフレインなのかどうかはともかくとして、やはり団塊ジュニアの一角である筆者が、どこか後ろめたさと気恥ずかしさを感じずにいられなかった事象であるには違いない。情報技術の発展で、ここまでコンテンツの供給環境と内容的なレパートリーが飽和している以上、そうそう簡単に時代を切り拓くような想像力が現れるはずもない。ただ、同時代のグローバルコンテンツとしては、「スパイダーマン:ファー・フロム・ホーム」が若者のイノセンスと現実性との関係に光を当てたり、「ジョーカー」が追い詰められたまま老いていく中高年の悲哀をエンターテインメントに昇華したりする懐の広さを見せつけられる中で、こうまで「若さ」の意匠に執着し、みずからの老害化に対する賢しい先行防衛ばかりが鼻につく国産アニメのクリエイティビティの幅の狭さに直面させられたことについては、さすがに辛い気分にならざるをえなかったのである。

 

そのような、表現技法面での洗練・進化と裏腹に、昭和末~平成にかけて語り尽くされた物語内容の更新の目がどうにも見受けられない状況下で、露悪的なまでに徹底して20世紀的な日本アニメの習い性を浮き彫りにしてみせた2019年末のアニメコンテンツ外の作品を、あえて今回は取り上げてみたいと思う。

そのタイトルは、2019年11月28日に発売されたPS4向けゲームソフト「十三機兵防衛圏」「オーディンスフィア」「ドラゴンズクラウン」など、横スクロール型の2Dアクション表現の職人芸的な美麗さを持ち味とするヴァニラウェア開発の最新作で、「機兵」と呼ばれる巨大ロボットを操って正体不明の「怪獣」の侵略と戦う、13人の少年少女たちの群像劇を題材にしたジュヴナイルSFゲームである。

 

「十三機兵防衛圏」に継承された特撮・ロボットアニメの文脈──「崩壊編」が担保する戦後昭和史との接続

まず、ゲームの文脈での「十三機兵」の立ち位置を確認しておこう。

この時期、世界的に注目されていた国産タイトルは、同じく11月発売の小島秀夫監督の最新作「DEATH STRANDING」であった。その影でひっそりと発売されながら、コアなゲームファンや業界人を中心に口コミで話題が広がりつつ、電ファミニコゲーマーなど、いくつかのメディアで熱烈な推しレビューが出たことにより、ネット上でブレイク。「日本オタク大賞」に選ばれるたほか、このほど国内SFファンダムの最高賞である星雲賞(メディア部門)にもノミネートされたりなど、今時のコンシューマーゲームとしては珍しい、ドメスティックな支持の獲得の仕方をしたタイトルである。

この注目のされ方は30~40歳代の古参ゲーマーには既視感のある光景で、必ずと言ってよいほど対比されるのが、インターネット普及初期の2000年に発売された「高機動幻想ガンパレード・マーチ」(ガンパレ)だ。
ゲームに詳しくない向きは拙著「現代ゲーム全史」などを参照してもらえればと思うが、アニメとの関連に着目すれば、まだ「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)の影響が根強かった当時、主人公キャラクターたちが学園での日常生活を送りながら(学園モード)、街に襲来する正体不明の異形の敵の軍勢を人型ロボット兵器で撃退する(戦闘モード)という作劇フォーマットをゲームシステムに落とし込み、当時のオタク層のフェティッシュに訴求して、知る人ぞ知るスマッシュヒット作に発展したのが「ガンパレ」であった(実際、「ガンパレ」開発元のアルファ・システムは同様のゲームシステムを踏襲した「新世紀エヴァンゲリオン2」を手がけている)。

したがって、非戦闘時の学園生活を中心とした思春期世代のキャラクターたちの群像ドラマをたどる「追想編」と、敵襲来時のロボットバトルを体験させる「崩壊編」とを別々のゲームメカニクスで表現した「十三機兵」もまた、「ガンパレ」から20年弱の時を隔ててリブートしたポスト・エヴァ期のロボットアニメ的な想像力の最新形として位置づけることができるだろう。

 

周知のように、ロボットアニメとゲームの縁は深い。とりわけ「ガンパレ」の「戦闘モード」や「十三機兵」の「崩壊編」は、いわゆるシミュレーションRPG系のメカニクスで表現されているが、もっと遡ればこれは1990年代初頭の「スーパーロボット大戦」シリーズの頃から、国産ロボットアニメのドラマツルギーをビデオゲームで再現する際のフォーマットとして開発されてきた手法を踏襲したものである。

このようなゲーム表現が成り立つ背景には、特に「機動戦士ガンダム」(1979年)以降のロボットアニメでは、作中の登場ロボットに「兵器」としてのリアリティが与えられるようになったため、戦術級ウォーシミュレーションゲーム(SLG)のユニットとして違和感なく表現できるようになったことがあげられる。つまり、純粋なウォーSLGならば戦車や歩兵といった盤面上の機能を持つ駒でしかなかったユニットに人格的なキャラクター性を見立て、かつ戦闘経験を積むことで性能的に成長するRPG由来の性格を付与することで、大勢の登場人物が戦場での群像ドラマを繰り広げる日本的なロボットアニメの作劇特性にマッチしたのである。

こうしたロボット兵器に搭乗しての戦場ドラマを体験させるシミュレーションRPG部分に加えて、非戦闘時のキャラクタードラマを図像とテキストで進行していくアドベンチャーゲーム(ADV)など別のゲームメカニクスで再現し、一連のストーリー体験として統合するタイプのタイトルも「サクラ大戦」(1996年)あたりを契機に一般化している。これはちょうど、生身の役者の芝居シーンを「本編」、着ぐるみとミニチュアで表現する活劇シーンを特技監督マターの「特撮」と称するような、ロボットアニメのさらに祖型にあたる「ゴジラ」「ウルトラマン」といった怪獣特撮の独特のフォーマット性が、形を変えてゲームに流れ着いたものと見ることも可能だ。

 

改めて振り返ってみれば、「エヴァ」というアニメーション作品が追求していた表現面での特徴は、「ウルトラ」シリーズなどの特撮ドラマが有していた映像的なフェティッシュを、「ガンダム」以降のリアルロボットアニメが開拓したジュヴナイル群像劇のストーリーテリングに接合することだった。ゆえに「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」を「Q」(2012年)まで作り終えたのちの庵野秀明監督は、「館長庵野秀明 特撮博物館 ミニチュアで見る昭和平成の技」(2012年)の展示を経て、「シン・ゴジラ」(2016年)、「シン・ウルトラマン」(2021年公開予定)の制作や2018年のATAC(特定非営利アニメ特撮アーカイブ機構)設立などの活動を通じて、20世紀日本の特撮とアニメの史的連続性を後世にリマインドしていく映像の世紀のアーキビストとして、みずからの役割を見出していったように見える。

これと同様に、「ガンパレ」以来のポスト・エヴァ作品としての「十三機兵」もまた、戦後日本が積み重ねてきた特撮・アニメの映像的記憶を、2010年代の最後にゲームという迂回路によって可体験化した試みとして位置づけることできる。先述したように、本作の「崩壊編」で踏襲されているウォーストラテジー系のメカニクスは、元々は世界大戦期の戦意高揚映画のテクノロジーにルーツを持つ怪獣特撮やロボットアニメが変奏してきた「戦争のスペクタクル」(こうした来歴については福嶋亮大「ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景」などに詳しい)を、別のスタイルで表象してきた技法にほかならないからだ。

 

そうした日本的な戦争文芸としての特撮・ロボットアニメとの隣接関係の中で見ると、2000年代初頭の「ガンパレ」は、1945年の第二次世界大戦の最中に突如として現れた「幻獣」に世界のほとんどが制圧されていく中で、ほぼ人類最後の版図として残った1999年の日本を、全高9m程度の人型戦車「士魂号」を主要兵器として運用する学兵たちの部隊が守るという偽史的な設定で、本土決戦を控えた「日本の戦争」の空気感をかなり直截に表象した作品だった。

これは戦後民主主義下の日本アニメにおいては、「日本の戦争」を大っぴらに描くことをはばかられていたからこそ、「宇宙戦艦ヤマト」(1974年)や「ガンダム」のように、ミリタリズムをオブラートに包むための方便として宇宙SFという舞台設定やモビルスーツのようなフェティッシュな意匠が奇形的な発展を遂げてきたことをかんがみれば、SFロボットものの根底にある心性が、ひそかに曲がり角を迎えていたことを示す証左として振り返ることができるのかもしれない。

この転換が可能だったのは、ひとえに「ガンパレ」が、現実の戦史を題材にすることが当然視されているウォーSLGの流れを汲んだゲーム作品だったからというジャンル的な特性ゆえにほかならないが、昭和と米ソ冷戦が終わって10年、湾岸戦争や非自民連立政権の成立、あるいは歴史教科書論争などを経て、政治と戦争をめぐる前提認識を「成熟」させようとする、平成中期に勃興した中道右派的な時代精神の痕跡が検出できることもまた確かである。

 

そこからすると、たび重なる改革勢力の挫折を経て平成そのものが「失敗したプロジェクト」に終わり、日本の政治的・経済的凋落が決定的になる中で幕を開けた「十三機兵」には、どのような時代相が刻まれているのか。

「崩壊編」で描かれるロボット戦闘の基本設定をより詳しく記せば、日本が平和を謳歌していた1985年、国内のある架空都市に突如として「ダイモス」と総称される数mから数百mまでさまざまなサイズの異形の巨大メカ群がどこからともなく襲来し、「ターミナル」と呼ばれる地下の中枢に向けて侵攻してくるのを食い止めるべく、主人公たちが唯一対抗可能な全高35m程度の「機兵」で数日間の防衛戦を戦うというのが概要だ。

したがって、ずっと戦時下が続いていたという設定の「ガンパレ」に比べればミリタリー色は薄く、ロボットのサイズ設定や、明らかに機械としてデザインされているダイモスたちをかたくなに作中では「怪獣」と通称している点も含めて、原点の「エヴァ」や「ウルトラマン」、あるいはその系統のリブートにあたる「パシフィック・リム」(2013年)といった特撮系イマジネーションへの回帰志向が強い。

つまり、2010年代に入ってからの庵野秀明と同様、きわめて自覚的に戦後昭和期ないし20世紀の想像力の包括的なアーカイビングを目指す意識が見て取れる。こうした指向自体は、1990~2000年代までの中心だった現代劇が衰退しほとんどが高度経済成長期を中心とする近過去時代劇になったNHK朝の連続テレビ小説や、旧作を公式二次創作化した「スター・ウォーズ/フォースの覚醒」(2015年)以降の新三部作、近過去の伝説の疑似体験としての「ボヘミアン・ラプソディ」(2019年)など、国内外の多くのメジャーコンテンツが向かったのと同様の方向性で、そのこと自体はいまや映像文化の加齢にともなう必然的なモードとして受け容れるほかはないだろう。

 

だから問題は、その前提の自覚のうえで、(冒頭に述べた秋のアニメ映画たちのように)単にオマージュの再生産の域に留まることなく、どの程度の深度での温故知新や批評的な打ち返しがなされていたかだ。ここからは、ゲームプレイの大部分をなす本作の「本編」にあたる「追想編」で明らかにされる物語内容や世界観設定に即して、ネタバレ前提で検証していくことにしたい。

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