総括・『天気の子』──東京論/気象ファンタジー/災後映画の視点から【平成後の世界のためのリ・アニメイト第4回】

2019年09月21日 18:000

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「東京論」映画としての「天気の子」

いっぽうで、雨と曇天に閉ざされた「人為」の場として舞台が東京に限られ、都内各地のさまざまな街がバラエティ豊かに描かれていく。「君の名は。」までの新海作品の多くは、地理的・時空的に隔てられた男女がそれぞれに独我論的な想いを抱えながら情報デバイスによってのみわずかな接点を持ち、それぞれの孤独の叙情として風景がリリカルに演出されることがもっぱらだった。

対して、雨の東京で主人公男女が実際に出会って過ごすという情景設定自体は、前々作の中編「言の葉の庭」(2013年)の延長線上にあるとも言える。ただ、都会の喧噪から隔絶された非日常的な逢瀬の場として新宿御苑が選ばれた詩情とは反対に、本作では家出少年が最初に直面する東京での酷薄かつ下世話な生活感の表徴として、同じ新宿でも歌舞伎町周辺が起点に選ばれ、帆高のネットカフェ難民化や、チンピラとのトラブルを経ての拳銃の拾得、そしてマクドナルドでバイトしていた陽菜との出会いがまずは描かれる。このあたりの一連のシーンは、いかにもな歓楽街・歌舞伎町のイメージに依拠して成立しており、風景に託した心象よりも場所の持つ記号性が物語を駆動している。

加えて、ここでのスマホの役割が、心が通じるただひとりの誰かとのコミュニケーション手段などではなく、「Yahoo!知恵袋」で遭遇する世間の冷たさの窓でしかないといったあたりも、過去作の類例とは一線を画した描き方だ。

 

そうした中で、いよいよ食いつめた帆高が須賀圭介から受け取った名刺の住所を頼りに、牛込あたり(新宿区山吹町)の坂の下に所在するK&Aプランニングまで白61系統の都バスに乗って訪ねる移動シークエンスを補助するツールとして、Google的なスマホの地図アプリが駆使される。つまり、地理と情報デバイスの関係が、過去作のような対立的なものから接合的なものへととらえ直されることで、物語を進める道具立てになっているのである。その結果、従来の新海作品ではあくまで叙情のための点景だった風景と風景の連続性が可視化され、面的な生活圏としての東京が自然に想起できるようになり、本作に一種の「東京論」映画としての性格を与えることになったと言えるだろう。

 

須賀を通じた「虚構の時代」の通過儀礼

こうした東京描写をさらに強化する要素として、なし崩し的にK&Aプランニングに住み込みで入社することになった帆高が、須賀の姪で同社を手伝う夏美とともに取材していく都市伝説への着目があげられる。わざわざ1979年創刊の実在のオカルト誌「ムー」を登場させて虚実の関係を多重化しつつ、本作が展開していく「100%の晴れ女」についてのファンタジーを“アリ”にしてしまうリアリティ・レベルへと観客の意識を誘導することが、この設定の作劇上の存在意義になっている。

言い換えれば、インターネット・ネイティブ世代の帆高に、都市には多くの隙間があって未知の神秘に満ちているとあえて信じてみせた1980年代的な「虚構の時代」の都市カルチャーの残滓をインストールする通過儀礼が、RADWIMPSの最初の挿入歌に乗せて、常に降り続く雨の下で遂行されていくのである。このくだりで描かれる東京の景観アイコンとしては、東京タワーや新国立競技場など、主に20世紀的な脈絡を抱いたランドマークが選択されており、帆高と須賀との関係性に重ね合わされている点も指摘しておきたい。

 

ここで重要なのは、都市伝説がフェイクであると知りつつ、すべてわかったうえでのエンターテインメントとして提供するのが仕事だとうそぶく、須賀の姿勢の扱い方だ。妻を亡くして娘の親権を義実家に取られ、まっとうな父親になれない不全感でくすぶり続ける40代の須賀という男が、明らかに現時点の新海誠監督自身の自己像が最も色濃く投影されたキャラクターであることは間違いない。つまり、1980年代の高度消費社会下でのサブカルチャー爆発の洗礼を受けた団塊ジュニアの東京人として、それ以前のようには自明の成熟像を持つことができず、いつまでも“大人”になれないという世代論的分析を受け続けてきた人格類型の体現者として描かれている。

さらには、それが虚構であることをわきまえながらフェイク・コンテンツを発信する屈託には、宮崎駿らのような堂々たるファンタジーは描けないが、リテラシーの成熟した受け手との共犯関係のもとに技巧を凝らしたシミュラークル(虚像・模造)を現実に紛れ込ませることならできるという、ポスト・エヴァ世代のアニメ作家としての自己言及性もまた、汲み取ることができるだろう。

 

民話的ファンタジーと実写的リアリズムが接合する「晴れ女ビジネス」

ただし当然ながら、そうした須賀的なエートスが劇中でそのまま肯定されることはない。新宿エリアを拠点としたK&Aプランニングの仕事のさなか、強引に水商売にスカウトされかけていた陽菜を帆高が衝動的に連れ出したことを転機に、物語は次のフェーズに移行する。露悪的なまでに「チェーホフの銃」の作劇セオリーを踏襲してみせた発砲騒ぎを経て、2人が代々木の廃ビルに落ち延びたのち、屋上の神社で陽菜が本物の「晴れ女」であることが判明。以降は、田端のアパートに住む陽菜と凪の姉弟が帆高にとっての第二の仕事仲間となり、手作りのウェブサイトでの依頼に応じて東京中の人々に束の間の晴天を提供するビジネスが、最初のお台場でのフリーマーケットの成功を皮切りに始動する。

 

この局面では、もはや1980年代的な都市伝説のフェイクを介することなく、現代に蘇った「日乞いの巫女」がもたらす真正の民話的ファンタジーが、RADWIMPSの2曲目の挿入歌に乗せて屈託なく展開する。つまり、帆高は須賀から俗世間をサバイブしていくためのビジネス感覚だけを継承し、どちらかというと2000年代初頭的なネットの使い方で直接顔の見える依頼者とのギブ&テイク関係を結びながら、同世代の力だけで局所的に夏の日差しが取り戻されていく奇蹟が、劇中で最も多幸感にあふれたシーンとして描かれていくのである。景観上のアイコンとしては、21世紀になってからのランドマークである東京スカイツリーや森タワーが重点的に登場するようになり、須賀たちとの暮らしと対照されている点も見過ごせない。

 

この展開はちょうど、「君の名は。」で言えば瀧と三葉が入れ替わってそれぞれの生活を送ることで心の距離を縮めていくラブストーリーとしての発展期にあたり、帆高と陽菜の恋愛関係も進展するのだが、本作の場合は意図的に低年齢的にデザインされているキャラクター造形とも相まって、むしろ凪をまじえて肩を寄せ合う「子供のユートピア」としてのトーンの方が強い。

つまり、「誰も知らない」(2004年)や「万引き家族」(2018年)といった是枝裕和作品に通ずる無縁と貧困の問題提起性を取り込みながら、新海アニメの最大の武器である「光」の表現を駆使することで、そこに実写邦画的なリアリズムとの落差による逆説的なファンタジーを成立させているわけである。このベンチャー成功劇の描写は、須賀に体現される前世紀的なロジックの屈託を帆高と陽菜の世代が素直な感性で超克し、社会的にも承認されていく可能性が、唯一ポジティブに示された場面でもあった。たとえば哲学研究者の戸谷洋志の評もこの点に注目し、ステレオタイプなセカイ系の図式に留まらない可能性を示唆しているが、筆者もそこには同意である。

 

民話的ファンタジーと実写的リアリズムが接合する「晴れ女ビジネス」

しかしながら、その後の物語展開で、陽菜の得た晴れ女の力が、天気のバランスを取り戻すための人身御供であるという真相が判明。そこに身寄りのない陽菜と凪の未成年だけの暮らしを問題視する児童相談所の介入や、拾った銃器の発砲問題で警察が帆高の補導に動き出したことが重なって「子供のユートピア」と大人社会との関係に綻びが生じ、居場所を追われた3人がいよいよ危機的な異常気象の中で逃避行を強いられるというかたちで、ドラマが動き出す。

そして騒動を経て彼らが池袋のラブホテルの一室に流れ着いた夜、陽菜がいったんは人々のために天に召されて雨を止ませて本来の夏の陽射しを取り戻すものの、彼女にそうした選択を強いた自分の言動を悔いた帆高が奮起し、正常な天候を犠牲に陽菜を取り戻すという選択が、本作のクライマックスとして描かれていくことになる。

 

このように天災的な脅威を鎮めるための人身御供としての運命を持っていたヒロインの自己犠牲的選択を男性主人公が覆す物語としては、よく取り沙汰される2000年代初頭の美少女ゲームというよりも、ゲーム「ファイナルファンタジーX」(2001年)におけるユウナとティーダの関係を彷彿とさせる。しかし同作のように提示された世界法則を読み換えて「根本的な解決」を図った同作のような「第三の道」が示されることはなく、あくまでも社会の多数を占める人々の幸福か、陽菜の生命かといったトロッコ問題的な二者択一の選択が、「天気の子」では主題として浮上していく。

 

新海監督としては、ここで帆高に後者を選択させることが時代の大勢に対して問題提起的であり、物議をかもすことになると考えていたようだ。しかし、本作への主要な批評で問題にされているのはそこではなく、「大人=社会の秩序」と「子供=個の感情」を対立させる問題設定の仕方そのものが現実の問題をとらえ損なっているのではないか、という次元での批判だ。

とりわけその視点からの有力な批判が、批評家の杉田俊介による評である。杉田は次のように本作のシナリオの「二重の欺瞞」を問題視し、それこそが現在の日本人の自己欺瞞そのものの露呈であると喝破する。

 

 

(1)「狂った社会」を大人たちが自覚的に変革したり改善したりするという可能性を最初から想定していないこと、

(2)しかも、大人たちは堕落した存在であると断定することで、責任を回避し、若者たちの口からこの世界はそれでも「大丈夫」だと言わせてしまうこと、つまり子どもたちの決断や自己啓発の問題として――見かけは大人の立場から若者を応援し、希望を託す、という態度をとりながら――全てを押しつけてしまっていること。

 

杉田俊介 映画『天気の子』を観て抱いた、根本的な違和感の正体

 

これは純粋に本作のストーリー構造を社会批評的な視点で読み解く場合は非常に強固な洞察であり、容易には否定しがたい説得力を抱いている。筆者もまた、この見方に明確に抗しうるほどの強いメッセージ性を、本作の物語から抽出することは難しいと感じる。

 

これに対し、前節で言及した戸谷洋志の場合は、帆高が徹底して自己責任的に「世界を変えてしまった」ことを深く自覚しながら、3年後の水没した東京に戻ってくることをもって、「社会の自然性の解体」こそが、より深いレベルにある本作のメッセージ性であると受け止めている。

 

 

『天気の子』において、3年後に東京に戻った帆高を待っていたのは、まさにそうした意味での社会の「自然化」だった。今ある社会を自然なものとみなすことで、大人たちは自分がその社会をもたらした責任を担わなくなる。しかし、それだけではない。社会の自然化は、現在の社会体制の維持・強化にも加担することになるのだ。言い換えるなら、いまある社会状況を改善しようとする態度そのものが否定されるのである。

 

それに対して、帆高は「僕たちは世界を変えてしまったんだ」と訴える。それは、いまある世界が自然にでき上がったということの否定に外ならない。そう考えることで、帆高は、自然化してさえいれば引き受けなくて済んでいた責任を、自ら引き受けることになる。しかし、だからこそ彼には、この世界を改善していくことができるし、この世界に対する評価を開かれたままにすることもできる。もちろんそれはすでに社会で決定されてしまった価値観からの逸脱を意味する。しかし、そんな逸脱をしたって「大丈夫だ」ということが、帆高の訴えなのだ。

 

戸谷洋志 なぜ帆高は「僕たちは世界を変えてしまった」と2度言うのか──『天気の子』における自然と責任の衝突

 

 

こうした受け止め方は、観客のひとりとして本作の鑑賞体験をより有意義にしようとする姿勢としては首肯可能だが、実際に作品として表現できているものへのリテラルな評価としては、いささか過ぎた擁護ではないかと思う。なぜなら、低地の水没した東京で、相変わらず普通の暮らしが送れるという前提で帆高がバイト探しをする(つまり、旧社会での日常性をいまだに“自然”として受け止めている)くだりや、この選択の“被害者”であるはずの立花冨美に代表させて「江戸に回帰しただけ」との免罪を与えるあたりの会話など、帆高にこの選択の責任者としての主体性を持たせようとする作劇的な意図を検出するのは困難だからである。なにしろ、この規模の水没であれば必ず起きているはずの膨大な人命の喪失や文明破壊の様相が、一切描かれていない。『君の名は。』と同等のはずの本作のリアリティ水準であれば、劇中の水没を「パンコパ」や「ポニョ」のようなファンタジックな寓意や隠喩としてボカすことなどはできないはずで、「前作で怒った人々をさらに怒らせたかった」はずの新海監督以下の制作陣は、明白に帆高に殺戮者・文明破壊者としての自覚を与えることから逃げたと受け止める他はないだろう。

 

この重大な描写欺瞞に目をつむるにしても、起きた事態の引き受け方であれば、たとえば「君の名は。」で瀧が最後に建設・復興関係の進路を志したような描写も可能であったはずだ。そうではなく、むしろ新海監督は年少の帆高たちの選択に対しての「自己責任」を問うように見える姿勢のほうをこそ、意図的に回避している。特に、何が起きたかを知りうるはずの須賀には「自分たちが世界を変えてしまったなどと思い上がるな」という台詞を与え、帆高を極力免責させている。これは若者が陥ったセカイ系的な短絡と直情を解きほぐす、(とりわけ1980年代的なアイロニーを身につけた)大人からの助言としては、それなりに妥当な気遣い方ではあるだろう。

 

だから筆者としては、杉田のように「狂った社会のしわ寄せを若者にすべて押しつけている」というほど本作の無自覚なイデオロギー性を責める気にはなれないが、戸谷のように「社会の自然性を解体し、旧来の規範からの逸脱をもって新たな可能性を引き受ける」というほどの達成を遂げていたとも思えない。

本作のトライアルは、そうした企画者・ストーリーテラーとしての主題やメッセージ性の突き詰めばかりではなく、新海誠が培ってきた21世紀的なアニメーション表現の力を「気象」という天意に属するモチーフに導入した際、どのようなエモーショナルなシーンやドラマツルギーの人為を表象しうるのかを模索する、表現論的な内在性からも出発していたはずだ。そうした主題論的なトップダウンと表現論的なボトムアップのせめぎ合いが、監督が企図していたほどの化学反応の深化には至らず、素材のポテンシャルは感じさせつつも熟成には至らないチグハグさや中途半端さが残った……というのが、筆者としての端的な評価である。

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天気の子

天気の子

上映開始日: 2019年7月19日   制作会社: コミックス・ウェーブ・フィルム
キャスト: 醍醐虎汰朗、森七菜、吉柳咲良、小栗旬、本田翼、島本須美、野沢雅子、倍賞千恵子、平泉成、梶裕貴、市ノ瀬加那、花澤香菜、佐倉綾音、荒木健太郎、神木隆之介、上白石萌音
(C) 2019「天気の子」製作委員会

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