【2022年のアニメを総括!】「ONE PIECE FILM RED」「すずめの戸締まり」「THE FIRST SLAM DUNK」──それぞれがリ・アニメイトした2022年の現実

2022年12月30日 17:000

■平成的「国体」にすがる令和日本の空虚の自画像としての「すずめの戸締まり」

 

 

以上のような読み解きを「FILM RED」に対して施すとき、いまや自他ともに認めるかたちで国民が求める宮崎駿的なロールモデルを引き受けようとしている新海誠が、東日本大震災という近過去の現実に向き合おうとした「すずめの戸締まり」はどう評価できるのか。

過去2作がそうだったのと同様、本作についてはすでに数え切れないほどの賛否両論の批評がネット上に溢れていて論点も出尽くしている感があるが、本連載で3年前に取り上げた前作「天気の子」の評では、新海が十八番の風景描写を研ぎ澄ませることで練り上げた美術・撮影処理ベースの「東京論」のレイヤーと、雨や雲のような人外のオブジェクトのアニメイトを突き詰めた作画・CGベースの「気象ファンタジー」のレイヤーとが高度に結びついた表現論的な達成を評価した上で、それを物語として主題化する「災後映画」としての脚本・演出のレイヤーには「天意」と「人為」の相克をめぐるリアリティ・レベルの設計に破綻があり、文芸面ではきわめて中途半端に終わった点を論難している。

 

そこから翻って、「君の名は。」「天気の子」に続く「災害三部作の完結編」になるべき次作について、筆者は当時、次のような展望をしていた。

 

ただ、それを踏まえたうえで、筆者が本作の物語の落としどころのすべてを否定する気になれないのは、この国の狂った現実を人為の再確立によっては正していけなかった場合の「プランB」として、衰退をも祝祭化して受け止めていくマインド・セットは、文明の小破壊が常にどこかで起こりうるこの列島のような風土においては、どうしたって不可欠なものだと思うからだ。

(中略)

そしてその自覚に立てば、少なくとも「君の名は。」に対する最も重要な批判には律儀に応えてみせた新海誠監督と制作陣に期待する“次”の課題は明白だろう。

そう、同一世界観で展開した「君の名は。」「天気の子」の物語の積み上げを踏まえつつ、世界に通底する天意のメカニズムの洞察に挑み、そこに対峙するできうるかぎりの人為の模索もまた「プランA」として包摂する、三部作の完結編だ。糸守町の被災の犠牲をなかったことにし、東京の水没を招来した前2作の少年たちの後先かまわぬ選択を引き受けながら、ポスト・セカイ系の人新世たる「狂った世界」で、誰がどのような社会を築いて生きていくのか。

 

おそらく、そこで鍵になるはずなのが、「天気の子」の企画当初の段階では須賀に与えられていたという気象AI研究者のような役割だ。天意の重さにウェイトを置いた今作のリアリティ水準では、そうしたテクノロジカルな人為によって陽菜をめぐる民俗学的な気象ファンタジーに対してSF的なアプローチを採ることは避けられていたが、それは見方を変えれば現時点では留保された宿題であるとも言えよう。

 

このような期待を寄せていた身からすると、「君の名は。」の批判点となった被災による喪失を「あったこと」に直したり、ヒロインが人身御供に捧げられる点なども叩かれた「天気の子」のジェンダー図式を反転させたりと、「すずめの戸締まり」は世間に指摘された過去作の瑕疵を小手先でバグフィックス(ないしは精神的な歴史修正)する余分なリテイク対応としか思えず、期待とは真逆の内向きな態度に心底がっかりさせられてしまった。

出し遅れの証文とは、まさにこのことだ。そんな今更のやり直しのために、わざわざオリジナル映画1本分のリソースを割いてまで過去作のエクスキューズにばかり専心するとは、どれだけ自分に自信がないのだろうか、この監督は。そういうのは、創作者として責任を取ったとは言わない。

そうではなく、自身が「やってしまったこと」をすべて包摂しながら、その全部の瑕疵を、作劇技術によって全人生を賭けても覆してみせること。「天気の子」で瀧と三葉や四葉を登場させて世界観の繋がりを示唆したのなら、今作でもその連続性は貫くべきだ。その上で、口噛み酒による時間ループで糸守町の住民被害を未然に防いだこととか、帆高の選択で東京を縄文海進期のような世界に戻したこととか、そういうムチャクチャな世界律の設定を全部緻密に整合させながら、そして自身が後ろめたく思っている3.11の現実性への応答もする。そこまでやって、初めて「集大成」になるのではないかと筆者ならば思わずにはいられないのだが、閑話休題。実際に世に出てきてしまった、「すずめの戸締まり」の作品性に向き合おう。

今作の表現論的構造を先の「天気の子」の読解と同じ図式で分析するなら、美術・撮影処理ベースのレイヤーは前作の「東京論」からロードムービー形式の「日本風景論」にシフトし、作画・CGベースのレイヤーでは雨や雲をフォトリアリスティックを維持しながら独特の仕方でアニメイトした「気象ファンタジー」から、荒ぶる大地としてのミミズや三本足の椅子、喋る猫などが駆けめぐる東映動画・ジブリ型の古典的な「アニミスティック・メルヘン」へと先祖返りしている点を指摘できるが、いずれも映像面の挑戦性では前2作よりも明らかに後退してしまっている。

 

そして肝心の脚本・演出設計のレイヤーでは、地震や天変地異をめぐる日本の民俗や神話に由来するモチーフに村上春樹の短編などからの引用をパッチワークし、ミミズや後戸、閉じ師といった独自のスピリチュアル・ファンタジーを組み上げているのだが、あくまでも鈴芽と草太の相互犠牲的な関係性を成立させるためのドラマツルギー上の便宜ありきの設定でしかなかったため、天意と人為が説得力の欠けたかたちで中途半端に結びつく前作同様のリアリティ・レベルの破綻が、またしても繰り返されることになった。

少なくとも茂木謙之介が厳しく批判するように(外部リンク:「TOKYO ART BEAT」新海誠監督『すずめの戸締まり』レビュー:「平成流」を戯画化する、あるいは〈怪異〉と犠牲のナショナリズム)、「東日本大震災で大勢の犠牲者が出たのは閉じ師の誰かが失敗したせいだ」とも解せる天譴論的なロジックを招きかねない点は、震災による喪失を単に感動ポルノ化するよりもはるかに罪深い思考とも言える。

おそらくそれは新海自身の企図したところではなかったはずで、こうした登場人物の身の丈のリアリティに即したストーリーライン構築の意識と、作品世界の大局的なファンタジーの寓意やコンセプトの批評性を適切に設計できるかどうかは、もはや作家性以前の工学的な技術論の問題なのではないかと、筆者などには思えてならない。

 

おそらく少なくないアニメ視聴者が薄々とは感じているように、新海誠にせよ細田守にせよ、かつての宮崎駿や富野由悠季が下積み時代を通じて体得してきたようには、技術と生理と思想が不可分に結びついた厚みのある「作家性」なるものをオリジナルに開花させられる土台を、時代環境的に自らの内に築けてはいないのだろう。

その空虚に最初に気付き、そのことを逆手に取ることで逆説的に作家性を発揮してきたのが押井守であり庵野秀明であったわけだが、そうした搦め手も一通り出尽くしたところで台頭してきた細田や新海は、自らの内的な総合性ではなく、まずは21世紀のアニメーション制作を支える情報テクノロジーやメディア環境が依って立つリアリティの機微を従来的なアニメのファンタジーと結びつけることで、それぞれが語りうる作品世界を構築してきたのだと言える。

 

だが、平成期の宮崎駿をロールモデルとする「国民的アニメ作家」の幻像を市場が要請するようになるにつれ、本人の資質とは別にその役割を担わざるをえなくなっているのが現在の新海誠であり、現時点におけるその困難が赤裸々に露呈してしまったのが「すずめの戸締まり」という作品なのではないか。その姿は、ちょうど本作の公開前に新海の作家性の確立過程を丹念に追った著書「新海誠論」を上梓した藤田直哉などが指摘するように(外部リンク:「CINRA」新海誠の『すずめの戸締まり』は、何を閉じたのか?宮崎駿作品の主題、『星を追う子ども』の共通点から考える)、まさに定期的な災害に晒される令和日本の衰亡を悼む「裏天皇」としての閉じ師そのものであり、そうした形骸化した「国体」にすがるメンタリティを捨てられない令和日本の現実を映し出す自画像としては、本作はきわめて高い批評性を有しているのである。

 

■「試合」の現実性と「劇映画」の虚構性を融合した「THE FIRST SLAM DUNK」

 

 

ここまで細田守なども引き合いに出しながら見てきたように、「FILM RED」と「すずめの戸締まり」の対比において、筆者がより未来に開かれたポジティブな可能性を感じたのは前者の方である。

先述の藤田直哉の新海誠論では、宮崎駿の主題系を引き受けて縄文以来の日本の風土に根ざした土着的な自然観や風景を愛でる情緒を継承しつつ、インターネット以降の現代的なテクノロジーがつくり出す雑多なカルチャーとも習合してゆくハイブリッドな日本文化のあり方を示すという方向で、新海が新たな国民的アニメ作家としての成熟像を歩んでいくさまが祝福的に捉えられている。その理路と願いのあり方自体には筆者も7割くらいは同意できるのだが、「すずめの戸締まり」の作品性や「国民」の空気を読みすぎる実際の身振りのあり方を鑑みるに、「天気の子」時点ならともかく今の新海誠に、例えば岡本太郎に連なるような縄文的な雑種性や叛逆性が見出せるようには、どうしても思えないのだ。

むしろその点で言うなら、自由気ままな航海を通じて次々と雑多な仲間を取り込み、新たなネットネイティブ世代と切磋琢磨して新時代に向かっていこうとする「ONE PIECE」や「FILM RED」の方が、よほど雑種文化的なイメージに近いのではないか。このあたり、「FILM RED」にはウタに憧れる少女ロミィ役の声優として、新海誠の娘・新津ちせが出演しているあたりも、2022年のアニメ映画の多様性の妙を象徴しているように思う。

 

そして平成時代に確立した宮崎駿ライクな「国民的アニメ作家」という立ち位置の自明性を疑ってみせるとき、この年の最後の月に多くのアニメファンがノーマークだった中で、まるで桜木花道がいきなりゴール下に出没したかのような不意打ちぶりで「THE FIRST SLAM DUNK」が日本アニメの表現史を塗り替えつつあるという状況も、正しく認識しておかなければなるまい。

なにしろ「SLAM DUNK」というマンガ史に残る伝説級の作品を描いた井上雄彦みずからが監督を務め、およそ原作者にしかなしえないだろうビジュアル表現で従来のアニメーションの概念を覆すような質感の映像作品を実現してみせたという意味で、平成初期の世界的な「ジャパニメーション」ブームの起点となった大友克洋の「AKIRA」(1988年)以来のインパクトになるからだ。

セルルックの標準的な日本アニメの絵面とは一線を画し、「井上雄彦のマンガの絵柄がそのまま動く」という海外のアートアニメに近いテクスチャ選択を最大のビジュアルコンセプトに据え、徹底したモーションキャプチャでバスケットボールの動きを取り込んだ緻密な3Dアクションと、物語進行を担う2D作画とを妥協なく統一してゆく未知の作り込みの映像は、ストーリーなどの一切の情報とともに公開直前まで秘匿され、予告編解禁から封切りに至るまでの衝撃をいっそう高めた。1990年代のテレビアニメ版とは声優陣が一新されたことが判明した際は当時のファンの間で炎上騒動が起こったものの、結果的にはそれすら踏み台にするかたちで実際の作品へのポジティブな評価の勢いに繋がっていった流れもまた、従来のジャンプ系アニメの映画化にも完全オリジナル新作にもありえない異例の盛り上がり方だったと言えるだろう。

 

そのような従来の日本アニメの文脈とは大きく離れた本作の映像表現の特徴を端的に要約するなら、バスケの「試合」の現実感を解体・再構成する映像アトラクションとしての体感性と、カット割りの編集技術によって語られる「劇映画」としての虚構性との、高度な融合の試みに他ならない。

それは具体的には、原作最大のクライマックスである広島インターハイでの湘北高校と山王工業の2回戦の試合をアニメイトしつつ、原作ではあまり背景の掘り下げられていなかった宮城リョータを視点主人公に据え、彼の出身地として設定された沖縄での生い立ちや、父と兄に先立たれて神奈川の団地に移住し、母と妹とともに暮らしてきた母子家庭のシビアな境遇、バスケ選手だった兄の影を追い求めて自らもバスケを始めて湘北に入る経緯などを映画オリジナルの物語として創造し、各人のキャラクタードラマを断続的に回想シーンとして差し挟んでいくという構成で展開される。

このようなモンタージュ手法により、リアルタイムに近いクロノス時間(客観的な時間感覚)に沿って目まぐるしく局面が変わる「筋書きのないドラマ」としてのバスケのカオティックな臨場感を味わいながら、時折アスリートのカイロス時間(主観的な時間感覚)に入り込んでいくかたちで多層的な時間性が融け合うドラマを追体験できるように企図されている。

 

こうした映像演出により、井上雄彦が原作のマンガのコマ割りの空間性を通じて表現しようとしていた間合いを、時間性の伸縮に置き換えてリ・アニメイトしている点が、本作の白眉と言える。これが可能だったのは、本作を鑑賞する少なくない層が、国民的バスケマンガとして浸透している原作や旧作テレビシリーズの記憶で大筋は補完可能であろうと割り切り、リョータ以外のキャラクタードラマ的な説明を思い切ってはしょり、試合展開の行間に託すという選択ができたことに依る。

つまりは、宮崎駿や新海誠のようなスタイルでオリジナルの劇映画を物語るのではなく、「現代の古典」的な位置づけにあるマンガ原作を持つからこそアニメならではの表現特性を追求するといった挑戦が、ここではなされていたのである。

 

そして、ここで湘北のメンバーが限界以上の力を出し切り、続く3回戦で「ウソのようにボロ負けした」幕切れが伝説化した山王戦の意味づけに新たな光を当てるための本作のアプローチとして、この映画がリョータの視点を通じて辺野古あたりと思われる沖縄の海に始まり、湘南の海で終わるという構造を持っているという点は重要だ。この海はリョータにとって海難事故で兄ソータを連れ去った彼岸の象徴であり、彼がその死を乗り越えていくための通過儀礼としての性格を、山王戦の試合に与えることになるからである。

 

リョータや母カオルが劇中の場面で海を眺める佇み方は、沖縄に伝わる海の彼方の異界ニライカナイを思わせ、観る者に死にまつわるさまざまな神話的・文芸批評的な読解を可能にする。例えば照沼健太の批評(外部リンク:「note」否定的なファンも抱きしめる。『THE FIRST SLAM DUNK』が描いた「震災」と「スラムダンク論」)では、幼少期のリョータがソータとともに遊んだ海岸の洞穴をかつて沖縄戦で使われた防空壕と推察するなど随所にアメリカの影を察知する戦後文学としての読み解きが、さらにソータの死を受け入れて母子が和解を果たすラストの海の場面を「90年代を舞台とした劇中の海が、2011年3月11日を通過して、2022年とつながるかのような瞬間」と評し、間接的に3.11の記憶に訴えかける「震災(後)文学」としての読み解きがなされている。

つまりは、「すずめの戸締まり」が不用意な表現で反発も招きながら直截に描こうとした弔いと鎮魂の主題性が、本作の底にも相通じていると見ることができる。それは奇しくも九州から四国、本州へと渡った同作のロードムービー構造において、結果的に「日本の風景」の埒外に置かれていた(そしてより「縄文」の血統的・文化的遺伝子を色濃く受け継いでいる)沖縄への巡幸を補完する役割をも、「THE FIRST」は期せずして果たしたことになる。

 

さらに映画のラストのサプライズとして、成長を遂げたリョータが渡米してNBA選手となり、山王戦で死闘を繰り広げた沢北栄治とのマッチアップを繰り広げるシーンが用意されている。これはリョータに劇中で沖縄から辻堂へとアメリカを暗示するライフコースを歩ませたこととも呼応する映画的な必然であるとともに、井上雄彦が集英社と共同で2006年に「スラムダンク奨学金(外部リンク)」を立ち上げ、実際に若いバスケットボール選手のアメリカ留学を支援し続けている現実をも想起させるシーンだ。

オープニングが手描きの鉛筆画から始まり、ラストで再び線画に戻るという演出も相まって、マンガとアニメーションと映画と現実との境界を越えてゆく映像体験を通じたメッセージ性の強さは、まさに国民作家・井上雄彦にしかなしえない偉業だったという他はないだろう。

 

かくして、性格のまったく異なる3本のアニメ映画の未曾有のヒット・リレーが、それぞれの意味で平成後の現実をリ・アニメイトしながら、悲惨な出来事が相次いだ2022年を締めくくっていくことになった。願わくばその勢いが、少しでも現実の劣化を食い止める力になることを祈りつつ、新しい年に備えたい。

 

【著者プロフィール】

中川大地

評論家/編集者。批評誌「PLANETS」副編集長。文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門審査委員(第21〜23 回)。ゲーム、アニメ、ドラマ等のカルチャーを中心に、現代思想や都市論、人類学、生命科学、情報技術等を渉猟して現実と虚構を架橋する各種評論等を執筆。著書に『東京スカイツリー論』『現代ゲーム全史』、共編著に『あまちゃんメモリーズ』『ゲームする人類』『ゲーム学の新時代』など。

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(C) 尾田栄一郎/2022「ワンピース」製作委員会

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(C) 2022「すずめの戸締まり」製作委員会

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