スタッフには「自分にはないもの」を求める
─スタッフは、どういった基準で選ばれるのですか? プロデューサーとしては諏訪道彦さん、岩田幹宏さん、落越友則さんとご一緒されることが多いようです。諏訪さんには拙連載でもお話をうかがい、植田さんのことを非常に高く評価されていました(編注:https://akiba-souken.com/article/46657/)。
植田 諏訪さんは、テレビ局のプロデューサーの中では一番、付き合いの深い方です。サンライズの時は、岩田さん、南雅彦さん、富岡秀行さんとよくチームを組んでやっていましたね。落越さんとは、A-1 Picturesを一緒に立ち上げて以来のお付き合いになります。会社の人事的な事情もありますけど、「自分にはないものを持っている人」というのは、ちょっと意識していますね。「自分の考えを一番わかっていてトレースしてくれる人」のほうがいいというプロデューサーもいると思うんですけど、僕の考えは真逆で、違う趣味ややり方を持った人とやるほうが、相乗効果が出ていいと思うんです。というのも、自分と同じタイプの人間を置いても「What's new?」は出てこないからです。もちろん、ある程度はツーカーも必要なんですけど、ツーカーで返ってこない「いやでも、自分はこうしたほうがいいと思うんですよ」とか、「え? なんでそんな方向でくるの?」といったやりとりも必要なんですよ。
─サンライズ時代には、脚本家の星山博之さんともよくご一緒されていましたね。大変残念なことに、星山さんは2007年にご逝去されましたが……。
植田 星山さんは、「バイファム」でも大変お世話になりましたし、僕の大先輩であり、盟友でもありました。ちなみに、彼の著書「星山博之のアニメシナリオ教室」に掲載されている「『バイファム』の秩父企画合宿の写真」は、星山さんに頼まれて、僕が用意したものなんですよ。ご存命中に出版できなかったのが、今でも残念でなりません。
─A-1 Pictures時代には「WORKING!!」(2011)、「ソードアート・オンライン」(2012)、「ガリレイドンナ」(2013)といった作品で、足立慎吾さんをキャラクターデザインに起用されていました。
植田 A-1の時は社長ですから、クリエイター選びは、ほとんど現場のプロデューサーにお任せし、足立さんもそういう中からの抜擢でした。それと、足立さんには作品づくり以外にも、A-1の作画人材育成面でも大変お世話になりましたので、本当に感謝しています。
「宣伝的な要素」でキャストを起用したくない
─キャスティングについてはいかがでしょうか? 植田さんはしばしば、実写の俳優さんを起用されていますね。「FLAG」では主人公の白州冴子役を田中麗奈さんが、「カウボーイビバップ 天国の扉」(2001)ではヴィンセント役を磯部勉さんが、「僕だけがいない街」(2016)では悟役を満島真之介さんが、それぞれ演じておられました。
植田 誤解のないように言うと、基本的には、声は声優さんのほうがいいと思っていて、宣伝的な要素で役者さんをはめていく、というのもあまり好きではありません。なので、監督から「この役者さんのイメージがキャラに合っているんだ」とか、「声優さんの慣れた芝居ではないものが欲しいんだ」といったお話があれば、実写の役者さんも配置するようにしています。
ただし、「FLAG」だけは例外です。オリジナル作品で、テレビにもかけず、配信だけでやろうと無謀な挑戦をしていたので、最初から、「主役の女性は、実力とネームバリューのある女優さんにしよう」と考えていました。それで、いろいろリサーチしたら、田中麗奈さんのお名前が出てきたので、事務所の社長さんに会いに行ったら、「なんとか口説いてみます」と言ってくださって、田中さんからもご快諾をいただきました。偶然、事務所の社長さんも「ガンダム」ファンだったので、受けていただいたのかもしれませんが(笑)。
「作品づくり」だけでなく、「人づくり」も大事な仕事
─新人採用にも積極的なのでしょうか?
植田 もちろんです。プロデューサーというのは、作品づくりだけじゃなくて、その作品によってどれだけ新しい人を業界に入れて、なおかつ、世の中に出していけるか、というのも大事な仕事なんです。だから、2021年から始めた「アニメプロデューサー塾」でも、「プロデューサーの仕事で一番大切なのは、未来をつくることだ!」、「作品づくりと同時に、人づくりもしなきゃダメなんだ!」と言っています。とはいっても今は、ワンクールアニメが多くなっていて、新人を入れたり、冒険的なキャスティングやスタッフィングをしたり、というのがなかなかしづらいんですよね……。昔みたいに1年以上続く番組があれば、途中で「ちょっとやらせてみようか?」とか、チャレンジもできるんですけどね。
─印象に残っている起用例を、ひとつあげるとすれば?
植田 「バイファム」で初めてメカデザインを描かせた永野護さんですかね。その後は、「重戦機エルガイム」(1984~85)でキャラクターデザインとメカデザインをされましたし、人気漫画家になった後に「ブレンパワード」でもデザインや原画をやっていただきました。逆に僕は、永野さんのご指名で彼の原作「ファイブスター物語」の劇場アニメ(1989)のプロデュースをさせられましたけど(笑)。
植田さんは「フォーマット破りの常習犯」!?
─そのほかに、植田さんがお仕事でこだわっていることは?
植田 なんだろうな……年をとると視野が狭くなってきたりするので、視野を広げるように意識しています。これまで何度も言ってきたように、僕は新しいことをやりたがる人間なので、同じことを習い性でやりたくないんです。「ガンダム」に出会い、「アニメでこんなことができるんだ!」と気づいてからは、ずっと既成概念にこだわらないやり方をしてきました。
─既成概念からはみ出した例を、いくつかいただけますか?
植田 「蒼き流星SPTレイズナー」(1985~86)では、高橋監督と話し合って、「オープニングの途中に、その話数の名シーンをアイキャッチ的に入れてみよう」ということになりました。オープニングって毎回毎回、同じものを流すのがそれまでの慣例でした。手間はかかりますし、現場では作業が面倒くさいので不評でしたが、ファンは喜んでくれていましたのでよかったです。「シティーハンター」でも、本編のラストとエンディングをくっつけちゃいました。それ以前は、本編とエンディングはロールを分けないといけない、というのがルールでした。「ガンダムX」でも、本編冒頭に監督クレジットを入れたり、エンディングにナレーションを入れたりしました。フォーマット破りの常習犯ですね(笑)。
─植田さんは、音楽制作にも関わる方なのでしょうか?
植田 そうですね。僕自身音楽が好きで、アニメでも音楽ってすごく大事だと思っていて、楽曲の中味だけではなく、音楽の出し方、見せ方でもちょっとずつ新しいことや、新しい考えを入れるようにしていました。たとえば「バイファム」では、日本では初めてだと思うんですけど、アニメの主題歌をオール英語にしました。僕が英語にしたいと言ったわけじゃないんですけど、ディレクターから「日本語で『強いぞ、バイファム!』じゃカッコ悪いから、いっそのこと、全部英語でやってみませんか?」、「植田さんも小学生の時ビートルズ聞いて、カッコいいと思ったでしょう?」と言いくるめられ、それもおもしろいかと、実際にやってみたら、視聴者のみなさんに、衝撃が走ったんですよね(笑)。「バイファム」がうまくいったので、その後の「シティーハンター」や「カウボーイビバップ」の音楽制作でもチャレンジすることを恐れず、つなげていくことができました。
─息抜きでしていることは?
植田 今はコロナで旅行にも行けないので、洋画ドラマを観たりしています。
初プロデュースの「ガンダム」で感じた「アニメの可能性」
─キャリアについてうかがいます。まず、アニメ業界に入った経緯を教えていただけますか? 植田さんは、日本大学芸術学部映画学科を卒業されていますので、もともと映像制作にはご興味があったんですよね?
植田 そうですね。大学時代は、実写映画や小説や音楽にハマっていましたが、実はアニメーションにはあまり興味を持っていなくて、当時はアニメを自分の職業にしようとも思っていませんでした。大学ではシナリオを専攻していましたが、すぐにシナリオライターには向いていないことがわかり、「やっぱり机に向かっているより、体を動かしているほうがいいな」と思って、在学中はフリーランスで実写映画の美術の仕事を手伝っていました。
学校にあまり行かず現場の仕事ばかりしながら、卒業間近になって、たまたまある深夜テレビの海外ロケの仕事が入り、「海外に行けるのか、ラッキー♪」と、映画の仕事を外し予定を開けていたのですが、急きょ「植田は連れていけなくなった」と言われて、3週間ぐらいスケジュールが空いちゃったんです。実写映画の仕事は楽しかったですが、1970年代後半には新卒採用がひとりもいない時期もあるくらい、業界が厳しい時期でもありました。そんな中、母校に行ったらたまたま、「日本サンライズというアニメ会社から新卒採用募集が来てるよ」と言われて、「アニメはやったことないけど、おもしろそうだから行ってみるか!」と、好奇心で面接を受けることにしたんです。そこで最初に担当と言われたのが「ガンダム」。何それって思いましたが、でも正直に言ってしまえば、「ガンダム」でなかったら、僕がアニメの仕事を続けていたかわかりませんね。
─師匠的な方はおられますか?
植田 やっぱり、富野由悠季さんですね。あとは、サンライズに入った時の最初の上司だった、神田豊さん。今はアニメをやっておられませんが、細かい気配りができる方で、やさし過ぎず厳し過ぎない態度でスタッフを乗せていくやり方というのは、神田さんから学ばせていただきました。
─なぜ監督や演出ではなく、プロデューサーの道を選ばれたのでしょうか?
植田 入社して制作進行の厳しさを体験し、「これは続けられないなー」と考え演出に転向しようと思い、富野監督に相談したら、「最低2年ぐらいは制作進行をやらないと、演出にはいけないよ」、「『伝説巨神イデオン』(1980~81)という作品が控えてるから、そっちの制作をやってくれないか」と言われました。それで、「わかりました。『イデオン』の制作をやりながら、演出になる機会を待ちます」と仕事を続けていたところ、たまたま「ガンダム」の劇場版制作が決定して、企画プロデューサーの山浦栄二さん以外、「ガンダム」を知っている制作陣が退社し誰もいなくなっていたので、「イデオン」を抜けて、劇場版を担当することになりました。1作目の映画が当たり、1作目は制作進行、2作目はアシスタントプロデューサー、そして、3作目の「機動戦士ガンダムIII めぐりあい宇宙(そら)編」(1982)で、「プロデューサー」という肩書きをいただけたんです。「めぐりあい宇宙」が終わった後、会社からは「植田君、どうする? 演出にシフトするなら考えるけど」と聞かれたんですけど、僕は「『プロデューサー』というクレジットをもらえたので、プロデューサーでいいです。そっちのほうが、僕がやれることも多そうだし」と答えました。それからは、「プロデューサー」という肩書きに合うようにみずからを鍛えていくというか、どうしたらよい作品が作れるか、ということを毎回仕事をやりながら学び、次の現場で実践していきました。
─プロデューサーデビュー作が劇場版で、しかも、あの富野監督の名作「ガンダム」というのもすごいですよね。当時の興行収入もよかったので、ヒットのよろこびもあったと思います。
植田 「ヒットを出してこそのプロデューサーだ」というのもありますから、大事なポイントですよね。僕の場合は、「ガンダム」という作品で「アニメの可能性」を感じることもできました。入社して最初に関わった「ガンダム」が、劇場版になってブレイクして、ガンプラも売れて、社会現象になっていった。本当に「何もないところから、コンテンツが大きくなっていく」というのを体験できたというのが、やっぱりすごく大きかったですね。