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シリアス物とギャグ物を交互に制作できたのは、偶然であり「奇跡」だった!?
笹川 ですから、「宇宙エース」には東映動画と一緒につくっていた企画のキャラクターやストーリーが、少しずつ入っています。やや「鉄腕アトム」に近い甘い感じの絵柄で、SF感のある漫画……「宇宙エース」は、まだ“漫画映画”というイメージでしたね。しかし、経験のない我々がいくら紙の上で「宇宙エース」だと言ったところで、テレビ局には相手にされません。そこで、15分ぐらいのパイロットフィルムをつくることになりました。 ところが、まずスタジオがないわけです。それまで吉田竜夫さんが漫画を描くのに使っていたスタジオは、自宅の一室でした。10人ぐらいアシスタントがおられたのですが、「一緒にアニメをやらないか?」と声をかけたところ、「漫画家になりたいからアニメには興味ありません」と断られてしまって。ひとりだけ、原征太郎さんというアシスタントだけが興味を示してくれて、原さんは僕と一緒に東映動画の研修に参加しました。ですから、アニメーションの技術的知識があるのは、僕と原さんの2人だけ。まだ「アニメ」という言葉すらない時代でしたから、全国紙に「絵の好きな方、絵の得意な方、募集します」と広告を出しました。すると、けっこう上手な人も来てくれました。 アニメ制作のための新スタジオは、国分寺に土地を買って、雑木林を切り拓いて宅地にしてプレハブ小屋を建てました。動画机は大工さんに作ってもらいましたが、絵をセルロイドにトレスする工程がわからない。セルがどこに売っているのか聞いたり探したりして、一度に何千枚も買えませんから、今日と明日の分のセルだけ現金で何枚か買ってきました。まるで、学生の文化祭ですよ。いま思いだしても、ゾッとします(笑)。
── でも、「宇宙エース」の放送後、「マッハGoGoGo」(1967年)のような本格的なメカアクション物をつくりますよね? 笹川 当時のアニメでは、車が勢いよく走り出すときはグニャッとつぶれてから、ピューッと弾丸のように飛び出すような描き方が主流でした。「マッハGoGoGo」は、硬い車がスピンする動きをすべて手で描いています。普通のアニメの3倍ぐらい、動画枚数がかかってしまう。もはや漫画映画ではありませんから、実車を借りてきて参考にしました。
── 実車というと、本物の車ですか? 笹川 そうです。東村山かどこかに車の練習をできる場所があったので、スタッフの目の前で運転してもらいました。「マッハGoGoGo」でいろいろ試行錯誤して、次が「紅三四郎」(1969年)です。車なら背景を動かせば走っているように見えますが、今度は柔道のような体術ですからね。止め絵では見せられないわけです。「マッハGoGoGo」と「紅三四郎」、この2本は吉田竜夫さんのハードでリアルなキャラクターを崩さずに芝居させました。大変な苦労をしたおかげで、アニメーターたちはかなり鍛えられたと思います。
── その2本の間に、「おらぁグズラだど」(1967年)と「ドカチン」(1968年)が挟まっているんですよね。 笹川 はい、吉田さんのハードな絵だけで連続してつくっていたら、最初の3作ぐらいでタツノコプロは潰れていました(笑)。うまい具合に「グズラ」や「ドカチン」など、単純な絵柄のギャグ物が入ってきてくれたんです。すると、その期間は作業がゆるやかになり、新人アニメーターもいっぱい来てくれます。偶然、ハードなアクション物の合い間にシンプルなギャグ物が入ってきたおかげで、忙しい時期を乗り切ることができました。
── 偶然なんですか? 計算してギャグ物を挿入していったわけではないんですね? 笹川 計算じゃありません。幸運というか、奇跡に近いです。「マッハGoGoGoの次の企画を考えないといけないんですけど、とてもそんな余裕はない。そこで、僕が週刊少年サンデーに連載していた「オンボロ怪獣クズラ」を原作にして、「グズラ」の企画を考えたりしました。「グズラ」の後の「ドカチン」、「ハクション大魔王」(1969年)までは、僕の路線なんです。
── 3本とも、笹川さんが監督ですからね。次が「カバトット」(1971年)で、放送の終わった翌月から「科学忍者隊ガッチャマン」(1972年)が放送開始です。ほかにも何本か同時進行していましたが、シリアス大作とギャグ物がいいタイミングで入れ替わっているんですね。 笹川 ですから、上手に描けるアニメーターは「ガッチャマン」に入ってもらって、「鉄腕アトム」の好きな人もいっぱいいましたから、そういうアニメーターたちには「カバトット」を手伝ってもらう。うまい具合に、融通がきいたんです。
── 先ほどお話に出た原征太郎さんは、後に演出にも進出しますが、「カバトット」では“原案”とクレジットされています。吉田竜夫さんのアシスタント出身ということは、絵も描ける方だったんですね? 笹川 原さんも絵は描けますが、吉田さんのリアルな絵柄とはまるで違って、「カバトット」や「かいけつタマゴン」(1972年)のような絵柄なんです。如才ない人で、何でもやってくれました。ただ、原画までは描きませんでした。絵コンテまでだったと思います。
── 「カバトット」のチーフアニメーターは、布川ゆうじさんですね。 笹川 布川さんはアニメーター志望で、虫プロダクションでも何か月か働いていました。その後、タツノコの外注を受けてくれる小さな動画スタジオに入って、それでタツノコと繋がりができたんです。割と早い時期に、アニメーターから演出になりました。
── 背景は、大御所の中村光毅さんです。この時期のタツノコ作品の背景は、すべて中村さんですね。 笹川 中村さんは天才でした。東映動画で絵の具を調合する係だったのですが、本人は絵を描きたかったんです。タツノコの誰かが声をかけて、背景専門としてタツノコに入社しました。僕たちは背景の描き方なんて知らないから、とても助かりました。さらに、「マッハGoGoGo」や「ガッチャマン」ではメカデザインもやってくれました。相談すると、どんな話でも聞いてくれる人なんです。お正月でも、中村さんの席はずーっと電気がついていましたね。
── すると、「カバトット」のようなギャグ路線は中村さんにとって息抜きになったのではありませんか? 笹川 とんでもない、中村さんにとっては仕事が増えただけですよ(笑)。何本も同時進行で「中村さん、こっちの作品も描いてくれない?」とみんなが頼りにしてましたから、中村さんはタツノコにとっては神様のような人でした。