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今の日本には、素っ頓狂なガヤガヤしたアニメが必要
── かつて富野総監督は、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』などでたくさんの絵コンテを切りましたよね。ただ部屋の中を歩くシーンでも2歩、3歩と克明に描くリアリズムが、後の富野作品に影響しているのではありませんか? 富野 まず、実際の移動距離をきちんと描くのがリアリズムだと思っているなら、それは大きな間違いです。むしろ省略することによって、劇として面白くなるように絵コンテを構成しました。特に『赤毛のアン』はストーリーの進み方が遅いのでリアリズムに見えるかも知れませんが、シーンが変わると、アンの気持ちが大きく飛躍しているんです。飛躍させずに、アンの気持ちが少しずつ変化していく過程をズルズルと描いていたら、観客は飽きます。観客が飽きないように、次のステップ、また次のステップ……と、上昇していく気持ちを構成するんです。高畑勲監督は日常会話を使いながら、劇をステップアップさせるテクニックを持った業師(わざし)でした。
別の例をあげると、新海誠監督はファンタジーを使って、いきなりポンと空を飛んでいるようなシーンを入れることによって、劇が上昇していく作り方をしています。僕や高畑勲監督、宮崎駿監督の世代はそこまでファンタジーを使うことなく、キャラクターたちの気持ちが上昇していく、あるいは落ち込んでいくプロセスを具体的なシーンとして積み上げていきます。シーンを単純に繋ぐのではなく、積み上げてステップアップさせていく方法論が『ハイジ』では端的に現れていて、『アン』でひとつの完成形を見たと思います。つまり、キャラクターの心理を追いかけていかないと、劇にならないんです。巨大ロボットが出ていようと出ていまいと、キャラクターの心理をきちんと追いかける。そういう意味では、『ハイジ』も『G-レコ』も同じ構図だと思っています。
『G-レコ』は、ドキュメンタリーのような実写的なものをつくろうとしているわけではありません。なぜかというと、アニメだからです。アニメだから、何よりも楽しく見られることを命題として、DREAMS COME TRUE(以下、ドリカム)の曲が来ても大丈夫なようなつくり方をしています。ドリカムさんに声をかけてみたら、メインテーマになるようなボリュームのある曲ができ上がってしまって、大騒ぎになりました。これは、楽曲に負けないぐらいの楽しいエンディングロールをつくらないといけない。だけど、スタッフから苦情が出ることもわかっていました。楽曲を優先して短いエンディングをつくると、自分の名前が読めないというクレームが、スタッフから出るんです。スタッフの名前を出すためだけの、6分も7分もある黒ベタのエンディングを見せられて面白いですか? 映画が終わっても、なかなかエンディングロールが終わらないから席を立てないという経験を、僕たちはイヤというほど経験してきましたよね? 今回はドリカムさんの曲に合わせたエンディングをつくって、明るく楽しく、期待感をもって終わりたい。そうすれば、次の第3部まで引っ張れる。「えっ、ガンダムとは違うんだ?」「いろんなキャラクターが出てきて、ガヤガヤしてる」「巨大ロボット物なんだけど、何だか変わっているよね」、そこが『G-レコ』の売りだからです。
もうひとつ重要なことがあって、僕の世代から見ると、新海誠監督の作品、京都アニメーションの作品、そのほかの深夜アニメなども、みんな一方向に偏って見えるんです。アニメというものは、もう少しバラエティに富んでいてもいいのではないか。そういう意図から、手描きアニメでありながら生々しさを感じる作品をつくることで、ほかの作品と差別化したかった。今の日本のアニメ事情を見ていると、『G-レコ』ぐらい素っ頓狂なガヤガヤしたアニメがあってもいいのではないか。そう思えば思うほど、ドリカムさんの曲の持っている明るさ、華やかさが欲しくなったんです。今回の「ベルリ 撃進」で、ドリカムさんの曲に合わせて作ったエンディングロールは、ちゃんと見てほしいんです。丸い輪の中に出てくる絵と歌詞とが、かなり対応しています。それこそ、「エンディングロールを見ているだけで何だか楽しそう」、そういうつくり方をしましたから。