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僕は、富野監督にとっての“味方要員”として呼ばれた
安田 その頃の富野由悠季監督はゲーム業界のことを研究していたようで、いろいろなメーカーの人と会っていました。僕の順番が来たときに、ファンであることをアピールしたことがよかったのかもしれません。最初は「ガンダムのコンペがあるので、それに参加しないか」という話でしたが、僕ならキャラクターデザインをやらせたほうがいいと、誰かが言ってくれたようです。
── 大阪から上京して、1か月だけサンライズのスタジオに泊まりこんで作業したと聞いています。 安田 カプコンから給料をもらいながら、「∀ガンダム」のデザインをやるという特殊な立場でした。しかし1か月では終わらず、半年やらせてもらいました。カプコンも僕が絵を描けなくて腐っているのを理解してくれていたので、自由にやらせてくれました。
── 富野監督は、どんな様子でしたか? 安田 初めから、飛ばしていました。「機動戦士Vガンダム」から、人の痛みに興味を持ったようでした。僕は「ストリートファイターII」をつくっていたので誉めてはくれるのですが、格闘ゲームでダウンして死に体になっている人間にさらに攻撃を加えるようなゲームはよくないし、そういうゲームをつくっている連中はどうしようもないと怒られてしまいました。……そのゲームは「鉄拳」のことで、「ストII」ではなかったんですけどね(笑)。
── では、富野監督は安田さんに何を期待していたのでしょう? 安田 いま分析すると、富野監督は味方が欲しかったんでしょう。夕方5時ぐらいになるとスタッフがスタジオに集まってきて、きっと珍しかったからだと思うんですけど、僕のところへ来て作品の現状だとかアニメ業界の話を聞かせてくれるんです。誰もが富野監督の話になると、「Vガンダム」制作時の不満を口にする。でも、みんな富野監督のことが嫌いなわけではないし、富野監督だけが悪いのではなく、アニメ制作が大変なのだと理解しました。「ガンダム20周年記念作品は富野ではなくてはいかん」と幹部の人たちは言っているのに、現場に人が集まらない。これは、精神的に富野監督は辛かったでしょうね。だから、僕は監督にとっての“味方要員”として呼ばれたと思っています。そうは言っても、「∀」制作時の富野監督はスタジオの真ん中に席を構えて、堂々としていました。やはり再起を図ろうという気持ちはあったのだと思います。
── 「ガンダムは、こうでなければならない」といった制約は、ありましたか? 安田 いっぱいありました(笑)。僕も開発の経験が長いので、どうしようもない状況の中で正論を言っても、物事は回らないとわかっていました。何とか少しでも事態が好転するように……と努めてはいましたが、∀ガンダムのデザインが上がったときは「えっ、これが最終稿なの?」という絶望感はありましたね。……失礼な話ですが。
それと、僕はかなり富野監督に甘やかされていたので、かなり適当なことを話していました。ドラマのことなんて理解していませんから、「ミハルの回がよかった」なんて話は決してしないんです。いかにガンダムが痛快か、「いつもガンダムは強くてカッコいい戦闘シーンがあり、アムロは常に無敵」というヒロイズムの面ばかり話していました。
「∀ガンダム」には“全肯定”という言霊があるので、ほかの「ガンダム」を全肯定という視点で見はじめると面白くなってくるんですよね。それまでは一介のファンに過ぎませんでしたが、「ああ、これがオタクにいたる道か」と……。