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『∀ガンダム』には何が足りなかったのか? (2)
── 『∀ガンダム』の戦闘シーンは、決めポーズで止めたまま、カメラが回転したり引いたり……といった昔ながらの演出が多いですね。 富野 つまり、『∀』独自の劇的なものがないんです。「ああいう戦場が本当にあったんだ」と感じさせる戦闘シーンがない。その過酷な戦場を生き抜いたキエルとディアナ、ロランがどうなったのか、ロランが半死半生の状態で生きのびたとか、そういう部分が足りなかった。巨大ロボット物の背骨になる部分に、まったく触れていなかった。「あのキャラクターたちを僕は本当に好きだったんだよね」で終わるのは、ロボット物ではないです。
── ロボット物とは言っても、『∀』はスポンサーの玩具を売らねばならない番組ではありませんでしたよね。 富野 いいえ、スポンサーの問題ではありません。シド・ミードさんが参加することになって、作品にああいうデザインを提供してもらえたのだから、ちゃんとロボットをからめた劇をつくらなければいけない。それを忘れていたんです。ウォドムなど、∀ガンダム以外のミードさんのデザインも使いづらいと感じていたんだけど、まさにそこがいけないところで、あのデザインを使ってみせる力技が見えなくてはダメなんです。そこに関しては、「富野はだらしがない」と言われても仕方がない。ザックトレーガー(軌道エレベータ)など、設定の新奇性へ走ってしまって、物語をつくる地点まで到達できていない。今ここで『∀』のことを反省するまでは、安田朗さんのキャラクターを使ってみせたことで、「ちゃんとアニメをやってるじゃないか」と思い込んでいました。「富野由悠季の世界展」で『∀』の映像を流してもらっていますけど、どのシーンもみんな好きです。つまり、ロボット物ではなくて、富野は映画としての『∀』を好きなだけなんです。
── ドラマの部分は気に入っているけど、メカのシーンが今ひとつなわけですね。 富野 メカを劇にからめることで人物も描ける、その根本的な構造が『∀』ではできていなかった。メカとキャラクターの関係を描き、挌闘戦闘物語としてふくらませれば、もっと『∀』関係のガンプラは売れたかもしれない。基本的に主役メカは売れるように描かなくてはならないんです。劇中で見事に勝利したり、見事に敗北したメカならば、必ず売れるんです。それを本能的に意図しているくせに、『∀』はロボット物のつくり方から、かなり足を踏み外していました。デザインではなく、メカの扱い方の問題です。
シナリオについてのスタッフの意見を、僕が聞きすぎてしまったことも原因です。自分の手に負えないサブキャラを出してしまって、大騒ぎになったことを思い出しました。作品というものは、もっと独善的につくるべきで、『∀』は富野ワールドになっていませんでした。あのエンディングは、何とか劇っぽく、映画っぽく見せるための力技でした。なぜそうせざるを得なかったかというと、∀ガンダムというメカを売りそこなったという反省があったからでしょう。ロボット物は厳然とロボット物であって、ほかのことはやっちゃいけないんです。