ツーリングとゲームで息抜き
─映像はできる限り仕上がっているほうが作業しやすいですか? それとも、絵コンテだけでも支障はありませんか?
川田 どの段階が作業しやすい、と言うのは難しいですね。極端な話をすると、コンテのままで作業をしても全然問題のない仕上がりになる作品もあれば、まぁまぁ動きがわかっているから大丈夫だろうと思ったのに、音がズレちゃう作品もあるんです。
─音づけの順番は決まっていますか?
川田 まずは生音ですね。その後並列して、業界で「キッカケ」と呼ぶ、何か合図になるものを受けて鳴らす音とか、爆発音とか、環境音とかをつける感じですね。生音は自分でやったものを録るという基本作業なので、椅子を引きずる音は、椅子を引きずればできます。効果マンは会社に入ると、まず生音を録ることから覚えていきます。
─美術監督の加藤浩さんは、音響制作に配慮した美術設定を作られているそうです(編注:https://akiba-souken.com/article/27757/?page=3)。川田さんは「この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」(2019)で加藤さんとご一緒されていますが、いかがでしたか?
川田 やっぱりそういう設定があると助かりますね。自分らが作業する時には色がついていないことが多いので、足元がわからなくて困ることがよくあります。草かなと思ったら、土だったり。「YU-NO」は、砂漠でも土っぽい砂漠のところと、砂っぽい砂漠のところがあって、そういうのは設定を参考にさせてもらっています。ただ「YU-NO」は動画が上がっていることも多いので、その場合は、設定よりも動画を優先させています。というのも、アニメは作中で設定が変わることがあって、アングルや距離でウソをつくこともあるんです。
─声優や作曲家の方々と、音作りについて意見交換をすることはありますか?
川田 皆さんお忙しいのでなかなかないんですけど、「魔法少女サイト」の井内啓二さん、「テイルズ オブ ゼスティリア ザ クロス」や「衛宮さんちの今日のごはん」の椎名豪さん、「活撃 刀剣乱舞」の深澤秀行さんとは、ダビングで意見交換をさせていただきました。これらの作品はどれも、フィルムスコアリングに近い作りになっています。
─息抜きでしていることは?
川田 ツーリングです。バイクが好き、というわけではないんですけど。あと最近は、「PUBG MOBILE」というゲームにハマっています。このゲームのおもしろいのは、毎回相手が違うし、毎回帰着するとこが違うってところなんです。久しぶりにハマったゲームで、「PUBG MOBILE」関連の実況動画も観ています。それと自分は構造オタクなので、バイクを直す動画とか、トレーラーハウスとか、構造がわかる動画をYouTubeで探して観ています。自分でバイクをいじったりはしませんが、構造を観るのが楽しいんです(笑)。
音響専門学校卒業後、スワラ・プロに
─キャリアについてうかがいます。まずはアニメ業界に入るまでのご経緯を教えていただけますか?
川田 そんなに具体的な考えがあったわけじゃないんですけど、とりあえず音分野で何か技術を身につけられたらいいなと思い、大分の高校卒業後、福岡にあった音響工学科のある専門学校に進学しました。今はなくなっちゃったんですけど、新聞配りをしながらそこに通っていました。
─苦学生だったのですね。
川田 親に「勝手にやる!」と言って出て行った都合みたいなもので、そんなに崇高なものではないです(苦笑)。
─アニメーターにご興味はなかったのでしょうか?
川田 自分は色覚異常があって、色がダメなんです。それに絵心もないですし……。だから、絵はもともと目指していなくて。コンピューターとかも好きなんですけど、その当時は色覚異常があると、情報処理関連の仕事にも就けませんでした。
─専門学校卒業後に応募したのが、スワラ・プロですか?
川田 応募というか、その当時は効果の募集なんてなかったんですよ。今は、技術系の求人サイトに出ることもあるかもしれないですけど。なので、アニメやバラエティ番組のエンディングを見て音響効果の会社を調べて、社名をひたすら書き留めて、東京23区の電話帳6冊を取り寄せて、片っ端から電話したんです。その中で唯一、「じゃあ来てみる?」と相手にしてくれたのが、スワラ・プロの当時社長だった伊藤克己さんでした。
─最初からアニメのお仕事を?
川田 そうですね。スワラは当時から実写もやっていましたが、自分は「アニメをやりたい」と言っていましたし、アニメが増えていた時期でもあったので、やらせてもらえました。
─どのようにステップアップしていかれたのですか?
川田 まずは先輩がやるのを見ながら、生音の作り方を勉強します。生音をやりながら、先輩がやるのを見たり、現場に助手として行ったりして、それ以外の音づけも覚えていきました。それを何年かやっていると、先輩から「1本やってみる?」と言われて。やってみたけどうまくできなくて、生音だけに戻ったこともありました。当時はいろんな音を探すシステムなんてなくて、「この音は、オープンリールのこの辺にある」って覚えていないと作業できなかったので、大変でしたね。
─初期のご生活は大変でしたか?
川田 20年も前のことですが、当時の給料は安かったです。でも、食事は会社や先輩のおごりでしたし、自分のやりたいことを仕事にできていたから、全く気になりませんでしたね。
─作品1本をおひとりでされるにあたり、昇進試験はありましたか?
川田 そういうのはないですね。先輩から「ひとりで全部仕込んでみて」と言われて、OKが出たら後は現場で、監督や音響監督のリクエストに応えていきました。
─師匠的な方はおられますか?
川田 いわゆる流派ってものはないですね。同じことをしてもしようがないかな、と思うので。でも周りの人からはよく、「川田さんはスワラの人だよね」と言われます。今は独立していますし、自分では違うと思っているんですけど(笑)。
ロケや技術を駆使して、音を仕込んでいく
効果デビュー、辻谷耕史さんとの出会い
─効果デビュー作品は?
川田 今野康之さんとの連名になりますけど、「メダロット」(1999~01)です。初めて自分にお声がかかった作品は、「ヤミと帽子と本の旅人」(2003~04)になります。
─「ヤミと帽子と本の旅人」は、声優で音響監督でもあった辻谷耕史さんの音響監督作品ですね。
川田 2000年代になって深夜アニメが増え出した頃、若手で頼める人を探していたダックスプロダクションさんから紹介していただいたのが「ヤミ帽」で、辻谷さんとの最初の仕事になります。そのつながりで辻谷さんと監督の山口祐司さんとは、スタジオディーンの「Fate/stay night」(2006)や「桃華月憚」(2007)もやらせていただきました。
─辻谷さんとは、「ダイバージェンス・イヴ」シリーズ(2003~04)や「閃乱カグラ」(2013)でもご一緒されています。音響監督としての辻谷さんの印象は?
川田 やっぱり舞台もされて、いろいろな映像作品も観ておられる方だったので、やりやすかったですね。声優だからせりふ優先、ということも全然なくて、ドラマ全体を考えた納得のディレクションでした。
─2000年代は、「まほろまてぃっく」(2001~03、2009)や「この醜くも美しい世界」(2004)といったガイナックス制作作品にも参加されています。
川田 初期にやった作品はやっぱり、どれも根っこになっています。「この醜くも美しい世界」は結構、自然音にこだわっていたなぁ。