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ファンタジー路線は続けたいが、どこかで元をとらなくては……
── 「戦闘メカ ザブングル」(1982年)の企画は、どのように成立したのでしょうか? 出渕 富野由悠季監督が入る前の「ザブングル」は、タイトルが違ってたと思うのですがSF宇宙物で、吉川惣司さんが監督でした。鈴木良武さんがシリーズ構成で、「トライダーG7」や「ダイオージャ」と同じように、主役メカだけ大河原邦男さんがデザイン、湖川友謙さんがほかのメカやキャラクターを描いてらっしゃいました。企画の途中で、吉川さんが降りてしまって、それで「宇宙物ならトミちゃん(富野監督)が得意だろう」という流れになったようです。「銀河漂流バイファム」(1983年)でも、富野さんは神田(武幸)さんと一緒に「原案」という立場を務めていますからね。だけど、1982年当初は「伝説巨神イデオン」の劇場版が夏に控えていましたから、富野さんは「僕は劇場アニメをつくってるんだよ! テレビなんかできるわけないだろ、バカー!」みたいな断り方をしたと思うんです。それでも富野さんはサービス精神の塊ですから、「考えてみたんだけど、こういうんだったら(監督を)やれるかもしれない」と提案されたのが、あの西部劇のような世界観の「ザブングル」です。憶測ですが「僕がやりたいのはね、市井の人たちが頑張って生きている『未来少年コナン』みたいなアニメなんだよ!」と思っていたんじゃないかな。それで、ガソリン駆動のロボノイドみたいなメカにつながっていったんじゃないかと思います。ただ、「ザブングル」は1クール目までは、鈴木良武さんのカラーが強いんですよ。“三日の掟”とかね。最初の頃、富野さんは「今回はタケ(鈴木良武)さんを立てていくんだ」って言ってましたから。
── 「ザブングル」では、前半のメカは湖川さんのデザインでしたね。 出渕 大型ウォーカーマシンは、湖川さんでした。湖川さんは、吉川さんが参加されてたときのアイデアをそのまま使って、デザインされていたと思います。サンドラットの使うホバギーも湖川さんで、それ以外の周辺のホバギーやホバートラック、ランドシップなどを僕がデザインしていました。湖川さんは世界観とか統一感よりも、「この形が新しい」というデザイン的な面白さを重視するタイプなんだと思います。トラッド11、ギャロップ、クラブなどは僕がベースのデザインを描いて、それを(湖川氏の設立した)ビーボォーの方でクリンナップしていました。富野ラフのあったドランなんかは、僕の描いたデザイン稿のまま使われてたと思います。
── 「ザブングル」の後番組が、「聖戦士ダンバイン」(1983年)ですね。宮武一貴さんが主役メカをデザインしましたが、数としては、出渕さんのデザインしたオーラバトラーのほうが多いのではありませんか? 出渕 そうかもしれませんが、中にはバストールのように、ビーボォーでデザインしたものもあります。湖川さんは「ザブングル」の頃から、ビーボォーの若手にデザインさせて、ビジュアル的な要素をアニメーションディレクターとしてコントロールしたかったんじゃないかと思います。主役機であるダンバイン含め、初期のオーラバトラーは宮武さんのベースデザインを、湖川さんが作画用にクリンナップしていました。 放映後、「もし『ダンバイン』の世界がもっとファンタジー寄りに構築されていたら」というifの世界観をバンダイ出版課(当時)の「B-CLUB」で試させてもらいました。
── イラスト連載「オーラファンタズム」(単行本は1987年発売)ですね。 出渕 あの頃の業界はまだ、コンプライアンスの感覚が希薄というか、デザイナーが自由に描いてもとがめられないどころか、むしろファンに支持されてしまうような緩い時代でした。数多の「ガンダム」亜種を送り出した「サイバーコミック」とかね。スポンサーであるバンダイ出版課の書籍だったから、という理由もありますが、「オーラファンタズム」も自分の好きなようにやらせてもらえましたね。ガレージキットなどの製品化に際しても、(編集者の)安井ひさしさんが交渉役を買って出てくれたので、特に問題は起きなかったと記憶しています。
── 同じ頃、テレビでは「機甲界ガリアン」(1984年)が始まりますね。主役のガリアンは大河原邦男さん、ガリアン以外の機甲兵は、すべて出渕さんだそうですが? 出渕 「ガリアン」の敵メカは、大河原さんのラフもありましたし、中村光毅さんが描いたラフもありました。人馬兵は、光毅さんのラフをベースに描きました。人馬兵の関節にはコブのようなものがありますが、あれは光毅さんのラフのままです。ほかには、大河原さんのラフデザインがSF的すぎたので、それを重たい鉄鎧でできたファンタジー路線に描きなおすのが、僕の仕事でした。ですが、「ガリアン」は別企画が流れたため急遽決まった企画で、時間がなかったんですよ。だからアレンジも含めて詰めきれず、決して納得のいった仕事ではなかった、というのが正直なところです。
そうした不完全燃焼な気持ちでいた時にOVA版の話が出て、それが主役のガリアンも含めて全体的にリファインした「機甲界ガリアン 鉄の紋章」(1986年)です。この時にリデザインした機甲兵は、当時の自分としてはオリジナリティーもしっかり出せたし、ベストな仕事になったと思っています。それなりの評価もいただき、造形家の食指も動かしたようで、ガレージキットもかなり発売していただきました。ただ、デザイン自体は買取なので、僕には一銭も入りませんでしたけどね(笑)。
この時のデザインには思い入れもあり、「鉄の紋章」からアレンジしつつ自分のオリジナルとして展開できないものか……と考えていた頃です。ちょうど、海洋堂さんとオリジナルロボット造形の展開の話が出たんです。海洋堂の宮脇修一専務(当時)も「鉄の紋章」の機甲兵を気に入っていたらしく、「半神半獣のファンタジーロボットで行きましょう」という話になりました。それなら自分に権利が発生して、自分で発信していけるわけです。そんな時に、旧知の編集者である安田猛くんから「月刊ドラゴンマガジンという雑誌を創刊するので、何か連載をやりませんか?」という話が来たのです。
── 漫画「機神幻想ルーンマスカー」(1988年)ですね。 出渕 最初は海洋堂の造形を基にして何かできるかも、といった軽い話でした。その後に安田くんから「漫画にしませんか?」という話が出て、最初は結城信輝くんに描いてもらうつもりでした。ただ、世界観や物語を構築していく過程で「やっぱり自分で描くしかない」と腹を括りました。「ルーンマスカー」は自分の原作でしたし、単行本もそれなりに売れガレージキットにもなり、デザイン買取とかではなく自分発信で、「ああ、これでやっと報われたな」という気持ちでした。
── 挿絵を描いた「ロードス島戦記」(1988年)も、同じ時期ですね。 出渕 そうですね。挿絵も漫画もキャラクターを描くことになりますから、メカデザインに加えてキャラクターの方もデザインしはじめた頃、と言えるかもしれません。元から、空想世界を妄想するのが好きでしたから、漫画などは物語やドラマ、世界観の構築はやはり楽しくて、のちに監督をする前段階の時期だったと言えるかもしれないですね。ですが、当時はまだ監督をやろう、などとは考えていませんでした。ショウちゃん(河森正治氏)が「マクロス」の劇場版(「超時空要塞マクロス~愛・おぼえていますか~」1984年、出渕氏はメカニックデザイン協力として参加)を監督していた時、不眠不休で死にそうになっているのを間近に見ていましたから。「3時間しか寝てない……」「えっ、1日3時間はキツいね」「1日じゃないよ、1週間で3時間だよ……」という会話を交わした記憶があります(笑)。