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衛星放送、デジタル化……、時代の狭間のアニメたち
── 90年代末はアニメ制作のデジタル化が広がって、放送形態も地上波だけでなく衛星波へ広がった変革期でしたね。 小中 衛星放送の「DIRECTV(ディレクTV)」が出てきた時代で、WOWOWが積極的にアニメを放送しはじめましたね。「serial experiments lain」は、セルで描かれていた末期の作品で、アスペクト比も4:3。WOWOWで放送された「THE ビッグオー」(1999年)は第1期がフィルム、第2期がデジタルでした。あの頃にアニメの脚本をいっぱい書いたおかげで、アニメ制作がアナログからデジタルへ移行する狭間を、経験することができました。
不遇なのは、HD化する前のデジタルアニメですね。この時期には、高画質化しようにもSD画質のデータしかないアニメが何本もあると思います。「lain」は贅沢なことに35mmフィルムで撮影されていましたから、何とか素材を発掘して、ブルーレイ化できたわけです。
── 98年の小中さんの作品は、「lain」のほかにもいっぱいありますが……。 小中 自分の履歴を振り返ると、1998年は異常な年なんです。「lain」以外では「ウルトラマンガイア」、「デビルマンレディー」、「バブルガムクライシス TOKYO 2040」、「ふしぎ魔法ファンファンファーマシィー」、シリーズ構成だけでこんなにやっているし、各話のシナリオでは「ガサラキ」なども書きましたし……。作品の依頼は、さまざまなルートから来ました。「ウルトラマンティガ」(1996年)を見てくれたスタッフから「THE ビッグオー」の脚本を頼まれたり、ニフティサーブにパティオという同業者交流会があって、「ゲゲゲの鬼太郎」(1996年)は、パティオ経由の縁でした。
── デビュー当初の話を聞かせてほしいのですが、小中さんはアニメの前に、「邪願霊」(1988年)といった実写のVシネマの脚本を書かれていましたよね。 小中 そうですね、「ほんとにあった怖い話」(1991年)などの実話怪談物、エロとカーアクションの入ったVシネマなど、いろいろ書いていました。
── 「ドラッグレス」(1991年)という、自己啓発セミナーに潜入するフェイクドキュメンタリーも小中さんの脚本で、とても先駆的に感じました。 小中 「ドラッグレス」は「LSD ラッキー・スカイ・ダイアモンド」(1990年)という橋本以蔵さんの撮ったVシネマの続編の話が、僕と弟(小中和哉監督)のところに来たことがキッカケでした。僕としては、70年代にイギリスでつくられた古典的なフェイクドキュメンタリー「第三の選択」をイメージしていたのですが、今はドキュメンタリー形式のドラマや劇映画が、イヤというほどたくさんありますよね。
僕と弟は学生時代から自主映画を撮っていて、先に弟が監督として商業デビューしたので、僕はシナリオで行こうと決めたんです。
── 「邪願霊」が評判になって仕事が増えた、ということはありませんか? 小中 いえ、それはありません。唯一、カイエ・デュ・シネマ・ジャポン誌で高橋洋さん(脚本家)が「邪願霊」について書いてくれて、思わず手紙を書いたんです。「えっ、見た人がいるんだ!」と、強烈に印象に残っています。「lain」もそうですが、「こんなもの誰も見てないだろう」と疑心暗鬼でつくると、受け手と独特な関係を結べるようです。
── 1990年代後半は「新世紀エヴァンゲリオン」(1995年)のヒットからアニメブームになり、小中さんもアニメの仕事が激増したわけですけど、シナリオ執筆のモチベーションはどこにあったのでしょう? 小中 作品ごとに違うと思いますが、たとえば、エンターテインメントとしてやるべきことはちゃんとやろうと思っていたり、原作物であれば原作のよさを損なわないようにしようと考えます。とは言え、「デビルマンレディー」のようにダイナミックプロさんの許可を得たうえで、原作とはガラリと内容を変えた例もあります。
── 「ウルトラマン」シリーズはいかがですか? 小中 1990年頃、ひさびさにテレビで新しく「ウルトラマン」をつくりたいから、若手のクリエイターを連れて来いというお達しが円谷プロダクションから出て、その中に僕と弟も含まれていたんです。僕と弟のアイデアは実らず、その後、僕だけ「ウルトラマンG」(1991年)に参加しました。「ティガ」に呼んでもらえたのは、そのときに名前を覚えていてもらえたからです。だけど、「今、ウルトラマンをつくるならこうだよね!」という夢が最初に潰えてしまったので、「ティガ」の中盤までの僕は、やさぐれていたんです。でも、つくっていきながらスタッフの意識が変化していき、それが画面にも表われていた。だから、当時のファンの人からすれば、平成に入ってからの3本の「ウルトラマン」は特別感があるのかもしれません。