第一歩は、タバックの映写マン
─キャリアについてうかがいます。アニメ業界に入ったきっかけは?
西山 映画が好きだったので東京の大学に通いながら、そういうところに潜り込めないか考えていました。ちょうどその時に、東映動画(現:東映アニメーション)の録音・編集部門であるタバックが、スタジオ映写マンを募集していたのでそこに入りました。
─映像関係の学科だったのですか?
西山 違います。英文科です。
─スタジオ映写マンというのは、どのようなお仕事なのですか?
西山 アフレコ、ダビングのフィルムをスクリーンに映す仕事です。台本を読みながら、アフレコでNGになったところを探し出したりもしました。一緒に仕事しているのが劇場を定年退職された本物の映写技師さんで、僕は声優さんを待たせないようスピードを上げてフィルムをかけていたんですが、本物から「フィルムを荒っぽく扱うな!」と怒られたりしました(苦笑)。板挟みでしんどかったですけど、声優さんに「ありがとう」と手を振ってもらえた時はうれしかったですね。
─いつごろ編集の道に?
西山 2年半くらい映写マンをやって、千蔵さんの助手にしてもらいました。千蔵さんは「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」(1978)以降の「ヤマト」のエディターで、実写もやっていたし、あの時代ではトップクラスの人です。「編集の天皇」と言われ、「仁義なき戦い」の編集もされた、宮本信太郎さんの直弟子です。東映の京都撮影所からやってきた人で関西弁で指導を受けていましたから、京都撮影所にいるみたいでした。
─千蔵さんの指導は厳しかったですか?
西山 僕は手先が不器用で、フィルムをばらして並び替えて束にしても、落としちゃうんですよ。外国人タレントのネガを転がした時には、「何千万もするフィルムの補償ができんのか!」と怒鳴られて……。髪の毛が真っ白になったこともあります。「ドンくさいやつ」とよく言われていましたが、だんだん悔しくなってこっちも意地になり、フィルムをうまく扱えるよう猛練習しました。あの時、あれだけ文句言われてなかったら、続けていなかったと思います。
─千蔵さんの編集助手として初めて関わったアニメ作品は?
西山 劇場アニメの「オーディーン 光子帆船スターライト」(1985)です。今はテレビでも助手のクレジットを出していますけど、あのころはテレビの助手なんて一人前じゃないから、絶対に出してもらえませんでした。「オーディーン」は、僕が初めてクレジットされたタイトルで忘れられません。
─キャリア初期のご生活は大変でしたか?
西山 映写マンのころはきつかったですね。でも、助手になってからは楽になりました。千蔵さんの弟弟子の花井正明さんにもついていたんですが、とても面倒見のいい人で、寝食ともにするくらい一緒にいました。本当に豪快で、札束を持って飲みに連れていってくれたり、松茸のフライを山盛りにして食わせてくれたり、おかげでご飯には困らなかったですね。言ってみれば、昔の活動屋です。暑けりゃ、ズボンをナイフで切っちゃいますからね。いっぱいエピソードがあって、映画にしたいくらいですよ(笑)。
デビュー作で尺足らず
─編集デビュー作は「北斗の拳2」(1987~88)でしょうか?
西山 そうですね。花井さんが別の仕事をやるというので、12本くらい僕がやりました。「仮面の忍者 赤影」(1987~88)が始まってからは戻ってきて、僕が「赤影」をやり、花井さんが最後までやっています。
─その12本はすべておひとりで?
西山 はい。その時、千蔵さんに言われたのは、「花井のリズムを崩さないで、花井に近い編集をしなさい」ということでした。ずっと花井さんについて毎日見ていたから、自信があったんですよ。完コピできるって。あれは花井さんと寝食ともにしていたから、できたことだと思いますね。
─デビュー作で記憶に残っているエピソードはありますか?
西山 アクションシーンをバスバス切っていくと、どうしても尺が足らなくなることがあるんです。フィルムの時代だから、編集ソフトを使って延ばしたりはできない。そこで、花井さんがやっていたみたいにカットバックで白味を入れて、ケンシロウ役の神谷明さんには5秒、ラオウ役の内海賢二さんにも5秒といった感じで、白味の間の演技をお願いしました。デビュー作で尺足らずというのはけっこうしんどかったですけど、花井さんは声優さんから信頼されていましたし、花井さんのやり方を踏襲することもできたので、大きな混乱はありませんでした。
─1980年代に約3年で昇進というのは、お早いのでは?
西山 世代交代もあったんでしょうけど、タイミングがよかったのはありますね。OVAも結構あって、「3×3 EYES」(1991)とか「ジャイアントロボ THE ANIMATION」(1992~98)とか、作品がどんどん増えていた時期でした。
─「SLAM DUNK」(1993~96)など、スポーツアニメにも関わっておられますね。スポーツで特段配慮したことは?
西山 ボールのイン・アウトは空をなるべく切って、シャープにつなぐよう努めました。ぬるかったらダメなんで、パスは結構切って締めましたね。「SLAM DUNK」は映画も数本作っていますし、本当におもしろかったですね。
─野球アニメの「おおきく振りかぶって」(2007、2010)でも活躍されました。
西山 リアル・ティ設立後に参加した作品ですね。僕がスパっといきそうになった時に、水島努監督から「そこは戻してください」、「あんまりトリッキーにはならないように」と止められた記憶があります。青春ドラマで気の弱い主人公だったので、感情の流れを繊細に表現するよう注意しました。
リアル・ティ設立と「時をかける少女」
─西山さんは2006年3月1日にリアル・ティを設立、独立されました。社名の由来についてはうかがいましたが、もう少し詳しいご経緯を教えていただけますか?
西山 腕試しで東映以外の作品をもっとやってみたかった。他流試合ですよね。千蔵さんも「出て勝負せい!」、「おまえだったら大丈夫や!」と背中を押してくれたので、独立をしました。
─立ち上げ当初はご苦労もあったと思います。
西山 「リアル・ティです」なんて電話をしても、制作会社さんは「は?」、「何なのその会社?」という感じでしたね。昔だったら、「タバックの西山です」の一発で通ったんですが、現実ってこういうことなんだな、と。そりゃそうですよね、生まれたばっかの会社ですから。
最初は仕事場の制約もありました。キュー・テックさんと共同で機械室を使っていました。今でこそどこからでもアクセスできる環境が整っていますが、当時は1部屋使っていると、別の作品を入れられないんですよ。
とはいえ、ハルフィルムメーカー(現:ゆめ太カンパニー)の子会社としてのスタートでしたし、J.C.STAFFさんともお付き合いがありましたので、頑張っていれば何とかなるだろうと思っていました。
─設立時の作品で記憶に残っているのは?
西山 やっぱり細田守監督の「時をかける少女」(2006)は大きかったですね。僕と助手の坪根健太郎しかいなくて、とても映画なんか請けられる状況ではなかったんですけど、坪根が絵コンテを見るや、「これはやらないとダメですよ!」と言ってきたので、請けることにしました。
─「時をかける少女」は大ヒットしましたね。
西山 奥華子さんの主題歌「ガーネット」は、今でもヘコんだ時に聴いていますよ(笑)。