影山ヒロノブが全部語った、アニソン界のトップランナーになるまで! デビュー40周年ベスト盤2枚同時リリース記念インタビュー!

2018年02月21日 10:000

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1977年、バンド「レイジー(LAZY)」のボーカル“ミッシェル”としてプロデビューしてから40年の時を経たシンガー・影山ヒロノブさん。2018年年明けには、「ゴールをぶっ壊せ ~夢の向こう側までたどり着く技術」(中央公論新社)を上梓するなど、数々の40周年プロジェクトが進行中だが、2月14日にも、CD「影山ヒロノブBEST カゲちゃんパック ~君と僕の大行進~」(コロムビア)と、CD「誰がカバーやねんアニソンショー」(ランティス)が発売された。この2社同時リリースに込められた想いとともに、アニメソングの第一人者となるに至った40年間の足跡を、影山さん自身に振り返っていただいた。


音楽へのめざめ

 

──影山さんご自身の、アニメ・特撮を含むテレビ体験の原点は、どのような番組だったのでしょうか?

 

影山 たぶん、2歳、3歳の頃ですけど「鉄人28号」はよく観ていました。大阪の実家の下駄箱に、お菓子のオマケのこすって貼るシールを貼りまくって、母親によく怒られました(笑)。小学1年生の時に「ウルトラマン」が始まって、僕だけでなく、それこそ日本中の子どもたちが大騒ぎだった雰囲気もよく覚えていますよ。小学5年生の時の「仮面ライダー」もそうですね。アニメだと「海のトリトン」や「宇宙戦艦ヤマト」も夢中で観ていました。印象的なアニメソングというと、「ジャングル大帝」や「リボンの騎士」、「パーマン」、「海のトリトン」あたりですね。こういうのは大人になっても忘れませんよね。

実家の床屋はそんなに裕福ではなかったけど、父親が音楽好きで、なんにもない家の中にステレオだけはドーンと置いてあったんです。昭和の歌謡曲やラテン音楽、映画音楽なんかがよく流れてましたね。

小学5年生のときには、もうタッカン(※後に影山さんとLAZYを結成する高崎晃さん)や田中くん(同じく田中宏幸さん(故人))と出会っていましたけど、タッカンは仮面ライダー大好きだったんですよ。近所の公園のジャングルジムの上から変身して飛び降りたりしてましたからね(笑)。 僕らの最初の出会いは、「一緒に仮面ライダーごっこをする友達」だったわけです。

 

──音楽の道を志すきっかけは?

 

影山 そのうち、タッカンと遊ぶのが「仮面ライダーごっこ」から「ギター」に変わってくるんですよ。アイツには当時大学生のお姉さんと高校生のお兄さんがいて、2人ともかなりの音楽好き、ロック好きだったんで、ほかの子よりマセてるというか、情報に敏感だったんですよね。お兄さんの持ってる音楽の情報がタッカン経由で友達に振り巻かれるみたいな。

僕も近所の八百屋さんでバイトして「フォークス」っていう誰も知らないメーカー(笑)のフォークギターを手に入れて、最初はフォークギターで吉田拓郎さんや岡林信康さんの曲を練習してました。当時の日本のフォークは、メッセージはやたらと濃いけど、ギターのコードは小学生でも弾けるくらい簡単だったので、ちょうどよかったんですよ。雑誌の「平凡」とか「明星」に、コード付きで歌詞がたくさん載ってたしね。

でも、小学6年生のときに「チューリップ」と「キャロル」が登場して、これがフォークとは段違いにカッコよかったわけです。そこでエレキギターに猛烈に惹かれてしまいますね。当時、チューリップはテレビの歌番組でも歌ってましたけど、伴奏のビッグバンドと歌手という組み合わせではなくて、「ロックバンド」としてテレビに出てくる姿にシビレました。髪も長いし、服もカッコいいし、間奏でギターソロがあったりね。ほぼ同時に、タッカンのお兄さんから、ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」を聴かされて衝撃を受けて。だから中学生になる頃には、もうエレキでバンドがやりたくてしょうがなくなってましたね。

 

──影山さんは現在ボーカリストとして活躍されてますが、いつ頃、ギターからボーカルへシフトされたんでしょうか?

 

影山 中1のときに、「フリージャー」っていう誰も知らないメーカー(笑)のストラト・キャスター(※エレキギターのモデル名)を買って。でも、周りもみんなギターなんですよ。仲間みんなで集まって、みんなギターでジャカジャカ弾いてるの(笑)。そのうちやっぱりバンドがやりたくて、自然にベースやドラムに移っていく人が出てきて。僕たちもその頃には「LAZY」を名乗ってバンドを始めていました。当初、僕はサイドギター担当でボーカルは別の友達がやってたんだけど、高校に移る頃に、キーが高すぎてレインボーやレッド・ツェッペリンのカバー曲が歌えないってことになって。ある時、じゃあ代わりに僕が歌ってみようかってことになったら、高い音まで無理なく出たんだよね。そしたら、「じゃあ、カゲ、ボーカルになれよ」って言われたんです。それまでに親父のステレオでレコードかけながら自宅で歌ってはいましたけど、本格的にボーカルということになったのは、この時が初めてですね。

 

アイドルバンド「LAZY」としてのプロデビュー

 

──LAZYとしてデビューすることになるきっかけは、どのような形で訪れるのでしょう?

 

影山 高校に入ったばかりの頃、LAZYでテレビの音楽番組のオーディションを受けて、2回くらい落ちちゃうんですよ。タッカンの入った高校の2年先輩に樋口さん(※LAZYのドラマーとなる樋口宗孝さん(故人))がいて、タッカンと樋口さんは演奏力も高く、プロへの志向も強くて、結局、この2人に引っ張られる形でドラムは樋口さんに、キーボードは僕が高校の軽音部で知り合った井上くん(※井上俊次さん。現:株式会社ランティス代表取締役社長)に交代して、本格的にプロを目指す方向になりました。このメンバーで朝日放送の「ハロー・ヤング」って番組のオーディションを受けたら一発で合格しました。それが高1の10月頃ですね。翌年の2月くらいにその番組収録があって、終わったら楽屋に司会のかまやつひろし(ムッシュかまやつ(故人))さんが来てくれて、「僕がデビューさせるからお前ら東京来いよ!」って。急転直下ですよ。4月にはもう東京に引っ越してきて、7月にはデビューしてましたからね(笑)。高校生のガキなんて、そんな決断力持ってなくて当たり前なんですけど、樋口さんはその点すごく野生的で、「俺はプロになる。お前らどうすんねん?」と迫ってくるんですよ。その強引さのおかげで、メンバーみんな、この世界に入ることになりました。

 

 

──デビューに際して、LAZYはロック志向ではなく、アイドルバンドとして売り出されることになってしまったわけですが……

 

影山 最初に声をかけてくれたかまやつさんがね、「ポール・ロジャースにプロデュースさせよう」とか「格好もそのまんまでOK」とか言ってくれてたんで、「あぁ、このまま俺たちロックできるんだ」と思ってたわけですよ。そうしたら、かまやつさんはだんだんプロデュース・チームから外されていっちゃうんですよね。向こうのロックの話とか、デカいことばかり言うから(笑)。で、代わりにチームになったのが、サウンド・プロデューサーが森本太郎さん(元ザ・タイガース)、レコード会社のディレクターは岡村右さん(元パープル・シャドウズ)、事務所の社長は元アウトキャストのメンバーっていう顔ぶれで。そうなるとやっぱりグループサウンズのようなタイプのバンドを、もう一度自分たちの手でプロデュースしたいって意識が強かったみたいですね。加えて、この頃日本でもベイ・シティ・ローラーズが爆発的な人気だったので、どうしたってその波に乗ろうとするよね。だからLAZYも、僕たちがやりたいハードロックとは別の方向の、「和製ベイ・シティ・ローラーズ」「平均年齢16歳のアイドルバンド」に変えられてしまったわけ。これについては、かまやつさんも後年、心苦しく思ってたよ……と告白してくれましたよ。

でもね、今思えばそれがよかったのか、悪かったのかはわからないんだよね。そこで無理矢理ハードロックでデビューしたとして、俺たちが今、ここに残れてるかどうかは本当にわからない。あの頃、お仕着せのアイドルをやらされてイヤだったのは本当のことなんだけど、それが失敗だったとは言えない。とにかく俺たちは売れたし。それが、その後の「LOUDNESS」(※LAZY解散後、高崎晃、樋口宗孝らが結成するバンド)にも、「NEVERLAND」(※LAZY解散後、井上俊次、田中宏幸らが結成するバンド)にも、僕がソロ・シンガーとして今日歌えていることにもつながっていくわけだしね。

 

──影山さんご自身はそれほどハードロック志向ではなかった?

 

影山 LAZYの後期には、高崎、樋口はもう、アイアン・メイデン、ヴァン・ヘイレン、ジューダス・プリーストに向かってましたし、とにかく「売れなくてもいいからハードロックがやりたい」といつも言ってました。僕、井上、田中の3人は、ジャーニーやTOTOなんかの、後に「AOR」って呼ばれるようになるウェストコースト・ロックが好きになってたんで、方向が違ってきていたのも事実でした。なので、彼らが目指すようなヘヴィメタルは、僕たちには似合わないんじゃないかな……とは思ってました。僕自身も、確かにハイトーンは出るけど、ヘヴィメタルに合うシンガーではないことを自分でもよくわかっていたんで、このままタッカン、樋口さんと一緒には行けないなというのは自覚していました。

 

ロックバンドというよりも、セッション・ミュージシャンを中心にしたユニットでまったく新しい洗練された音を生み出していたTOTOの活動には大いに刺激を受けましたし、デイヴィッド・フォスターのAORユニット「Airplay」に憧れたのもその頃です。コーラスワークもすごいし、どうやって演奏してるのかもわからないくらい難しいことをやってるし、こういうロックを目指したいと思ってましたよ。昨年発売したデビュー40周年記念アルバム「A.O.R」で、「Beginning」という曲をデイヴィッド・フォスターにアレンジしてもらえたのは、まさに夢の実現でした。

  

独立、そして苦節の日々へ……

 

──LAZY解散後は、ソロ・シンガーとして徳間音楽工業(現:徳間ジャパンコミュニケーションズ)から再デビューすることになりますね。

 

影山 ソロになったはいいけど、詞も書けない、曲も書けないんですよ。やったことなかったから。自分ひとりで音楽を作り出す能力がない、自分のやりたい方向をスタッフに示すことすらできないことに、はたと気づくわけですよ。スタッフが与えてくれる詞や曲に「う~ん……」と思いながらも、代替案をうまく提案できない。そんなジレンマに陥っていた時期ですね。そうすると、「この人、何がやりたいのかわからない……」って、スタッフもファンも離れていくものなんですよね。自分のやりたいことをやるには、自分でやり始めるしかない……というのを痛感しました。そこから、レコードになるかどうかは度外視して、とにかく自分のライヴのために曲を作り始めました。

 

そのうち、徳間とも事務所とも契約を解消されます。その時に紹介されたのが、後に「スーパーロボット魂」「スーパーヒーロー魂」などのコンサート制作を行うことになるバースデーソングの山岸達治さんでした。彼が全国のライブハウスをブッキングしてくれて、その代わりにギャラはなし。山岸さんの事務所に所属しながら、楽器を詰め込んだワゴンで寝泊まりして全国のライブハウスを巡る日々が始まりました。ライブがない日は建設現場で肉体労働。それが21歳の頃ですから、LAZYを解散して1年ちょっとしか経ってない。ホント、ダメになるのはあっと言う間ですよ。

 

でも、そこから5年間、ひたすら自分のために曲を作っては歌い続ける日々で、相当鍛えられましたね。年間120本から150本のライヴをこなす中で、声が出なくなる日もザラでした。それでもヤメるわけにはいかないから、無理矢理絞り出してるうちに、声質も強く、太く変わっていきましたね。お客さんもあんまりいないし、一番無名で辛い日々でしたけど、ものすごく実りは多かった。山岸さんには感謝しかありませんよ。

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