宮崎駿監督作品、ジブリ作品、ガイナックス作品に影響
─影響を受けた作品はございますか?
益山 子供のころに観た作品で印象に残っているのは、宮崎監督の「未来少年コナン」(1978)や「ルパン三世カリオストロの城」(1979)、それからジブリ作品です。「耳をすませば」(1995)くらいまでが、子供のころの影響としては大で、1番好きなジブリ作品は「天空の城ラピュタ」(1986)です。「ふしぎの海のナディア」も子供のころ大好きで、よく見ていました。
ガイナックス作品を意識したのは「新世紀エヴァンゲリオン」で、「アベノ橋魔法☆商店街」(2002)くらいまでの作品に強く影響を受けました。
─尊敬する方や師匠は?
益山 業界に入る前はアニメーターそのものにあこがれていたので、うまい人はすべからく好きで尊敬してました。師匠は誰かと言われたら桑名郁朗さんかなと。原画駆け出しのころは、桑名さんによく見てもらったり、飯を奢ってもらったりしました。
業界に入って割と長いことやっていると、自分の仕事に熱意を持ってこなせ、かつ私生活のほうも充実している人にあこがれます。仕事ばかりで会社に泊まり続けて、というのは自分のスタイルとは違うなと思っていて、会社に何泊もするのが向いている人もいますが、僕はどちらかというと、夕方になったら帰りたい派なんです(笑)。
─アニメーターは個人事業主の方が多く、ワークライフバランスの充実は大変難しいと聞きます。益山さんは現在、A-1 Picturesの社員なのですか?
益山 いえ、雇われ監督ですね。社員って利点もあると思うんですけど、1か所にしばられて作品を限られてしまったり、「社員である以上は、これをやってもらいます」ということもあったりするので、いずれどこかの社員になる時がくるかもしれないですけど、現状に関してはそこまで惹かれはしないです。アニメの場合は、作品で拘束費(編注:役職や能力に応じて支払われる固定報酬)をもらったりして、収入を確保する方法もあります。と言っても、作品が終われば無職に戻りますが(笑)。
─作品参加の基準はありますか? 作品で制作会社を移ったりしますか?
益山 僕はそんなに会社を移っていなくて、ガイナックスを出た後は、A-1 Picturesで割と長くやっています。同じ班で気の知れた人たちと一緒にやるのがやりやすいですから。「ブレンドS」はA-1 Pictures社内の別班でしたが、同じ社内でも班によって気質が違うので、刺激にはなりました。
ただ、おもしろい作品や勉強になる作品であれば、単発でお仕事を請けてしばらく別会社に入ったりする場合もあります。「ご注文はうさぎですか?」や「ヤマノススメ セカンドシーズン」などは作品に興味があり参加しましたし、「Occultic;Nine -オカルティック・ナイン-」(2016)だったら神戸守さんのコンテ(第5話)を、「ベイブレードバースト」(2016~17)だったら平野俊貴さんのコンテ(第14話)を勉強させてもらいたくて、演出で参加しました。「ベイブレードバースト」の時は子供向けをやってみたい、という気持ちが強かったです。
趣味は家庭菜園とプラモデル
─息抜きですることは?
益山 今の自宅は古い借家で庭がついていまして、そこで家庭菜園をしています。今は冬で土を休ませていますが、季節で里芋、きゅうり、トマト、ゴーヤとかを作ったりしています。あと、時々プラモデルも作ります。畑仕事やプラモデルは、何も考えないで作業できる、無心になれるのがいいんです。
─家庭菜園は長いのですか?
益山 もともとガイナックスの園芸部所属で東小金井に会社があった時のことです。会社の裏のスペースにちょっと余っている土の部分があって、会社にお願いしてスペース使用許可をもらい、農家出身のゲーム部の人とか何人かで集まって園芸部を作り、大根を植えたりとかしていました。その延長線上で、自宅でもスペースがあったので、小さな畑をやっています。
─収穫時は、ご自身で召し上がるのですか?
益山 はい。カミさんと一緒に食べたり、時々人をお招きしたり。
(編注:ガイナックス社屋裏(当時)にて、開墾する益山さん)
ガイナックス時代を振り返る
─キャリアについてうかがいます。大阪アニメーター学院をご卒業後、最初に入社されたのがガイナックスでしょうか?もともとアニメーター志望で?
益山 そうです。
─関西にも多くのアニメ制作会社があります。なぜ上京してガイナックスに? ジブリを受けたりはしなかったのですか?
益山 単純にガイナックス作品が好きだったからです。ジブリを受けなかったのは、小さいころ好きだったというくくりの中に入っているので、業界に入る時にジブリで仕事をしたいとまでは強く思いませんでした。というか、受けてもまず落とされたでしょう(笑)。
─ガイナックスが第1志望ですか?
益山 はい。合格通知が来るまですごーく時間がかかりましたけど(苦笑)。相当ふるいにかけられて、ギリギリ引っかかった例なんじゃないかと思います。当日、面接の動画検査さんに、「『ガイナックスだったら、東京で仕事がしたい』なんか言うやつは、基本落とすんだよ」みたいなことを言われましたからね。
─最初のお仕事は?
益山 水島精二監督の「鋼の錬金術師」(2003~04)の動画です。
─当時のご生活は大変でしたか?
益山 僕はもうスタートから動画マンは厳しいとわかっていたので、1人暮らしではなく、ルームシェアをしていました。その相手というのは、「ブレンド・S」でキャラデザをお願いした、奥田陽介くんです。
─奥田さんは、「ご注文はうさぎですか?」のキャラクターデザインもされていますね。
益山 奥田くんは大阪アニメーター学院の同期で、当時からうまく、「この男はビッグになる!」と思っていました(笑)。一緒に住んで家賃を折半して、動画時代を乗り切りました。それでもなおカツカツでしたけど。
僕が入った時、ガイナックスは「トップをねらえ2!」(2006)をメインで動かしていたのですが、あの作品がなかったら、僕は今業界に生きていなかったです。「トップをねらえ2!」はOVAだから、動画単価が高いんです。それでも、毎月5万いかなかったですが、5万いったら、ガッツポーズですよ(笑)。ご飯のローテーションは100円均一のうどん、そば、パスタで、ほぼ具はなし。当時は今では考えられないくらい、ほっそりスマートさんでしたよ(笑)。そんな生活を3年くらい続けていました。
─拙連載でもアニメーターの天﨑まなむさんが、最初は出来高制だとおっしゃっていました(編注:https://akiba-souken.com/article/28637/?page=2)。
益山 今僕が業界に生き残っているのは、いろんな奇跡のおかげだと思います。環境、関われた作品、人間関係、偶然が重なって生かされている、本当にそう思います。
動画を3年、原画マンへ
─原画デビューした作品は?
益山 「ひだまりスケッチ×365」(2008)です。「天元突破グレンラガン」(2007)の自分が入る話数(第11話)まで若干間があるから、その間をつなぐために取った記憶があります。
─原画に上がるまでどのくらいかかりましたか?
益山 3年です。ガイナックスの同期5人の中で、1番動画が下手でした。原画に上がるのも遅く、雨宮哲くんや山口智くんは、1年ぐらいでサラッと原画試験をパスして、作監もやっていました。後輩にも抜かれました!(笑)。
当時、社内では1年経ったら原画に上げるというシステムをとっていて、僕は入社2日目で動検さんに、「お前、もう動画やめろ!」とスタジオに響き渡る大声で怒鳴られていましたが、そのくらいできない僕でも、「1年経てば、原画に上がれる……」という希望にすがっていました。1年後を見越して、動画をしながら原画の勉強をしようとL/Oを描いて、先輩方に持っていったりしたころに会社から、「今年から枚数システムを導入しまーす」となって、かなりぼうぜんとしました(苦笑)。
─具体的にはどうなったのですか?
益山 3か月で決められた枚数をクリアした人が原画試験を受け、試験がダメだったらもう1回振り出しに戻る、というシステムです。僕は落ちまくって、3~4回ぐらい試験を受けました。
動画作業は手も遅く動検に目をつけられていたので、1カット出せばリテイクの毎日、「死にたい……」と思いながらやっていましたけど、それでもよかったなと思うのは、L/Oや原画の上がりをいっぱい見ることができたことです。脂の乗ったうまい人たちがゴロゴロしていたので、そういう人たちの上がりをたくさん見ることができたのは確実にプラスになっています。動画マン時代に先輩から、「どうすれば動画が早くなるかを教えてあげよう」と秘技を授かるように言われた言葉が、「2倍の速さで線を引くのだ!」でした(笑)。
もし1年で原画に上がり、個人の作業に移っていたら、別の生き方になっていたかもしれません。払った代償は大きかったですが……。
─原画マンになってからは、どのようなカットを?
益山 ごく一般的な普通のアニメーターだったので、会社から振られたり、自分で選んだカットをやっていました。時々アクションが回ってきて、といったレベルです。手の遅さはわかっているので、自分から「超絶動くカットをやりたいです」というのはまったくなかったです。
当時をたとえるなら、周りはみんな「ガンダム」で、すごい機動性と成果を上げ、「俺がガンダムだ!」と戦う人たちの中で、僕は「ジムだ!」と(笑)。「ガンダムの性能を少し積んでいるので、ほどほど戦えます」という感じで作業していました。でも、ジム・カスタムくらいではありたい、と今でも思ってはいます(笑)。