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“原型師”という感覚の希薄さと、メーカー志向
──1987年当時、国分寺駅に近い木造アパートに、社屋がありましたよね。当時、何度かうかがいましたけど、もうボロボロで……(笑)。 渡辺 それは、入居したときには、すでに取り壊しが決まっていたからです。大家さんの息子が武蔵野美術大学の学生で、ホビー好きだったんです。だから、毎日、マックスファクトリーに遊びに来て、ちょっと手伝って、メシを食べていったりしてましたよ。しかも、彼のおかげで安く借りることができました。
国分寺の前に、府中でもアパートを借りていました。そこも取り壊しの決まっている○○荘みたいな木造アパートで、2階の何部屋かを借りていました。1階では、別の業者が剥製を作ってましたね。
──剥製ですか? 渡辺 作るとき、匂いが出るからでしょうね。だから、取り壊しの決まった物件が向いてたんでしょう。
──同じ1987年に、松戸に移転していますね。そこは一軒家でしたね。 渡辺 1階の食堂みたいな大きな部屋を作業スペースにして、2階に僕が住んでいました。マックスファクトリー所属の原型師のお父さんが不動産屋さんだったので、そのつながりで、やっぱり格安で借りられたんです。
──その頃は、「New Story of Aura Battler DUNBINE」(「聖戦士ダンバイン」のOVA版)や「機甲界ガリアン 鉄の紋章」のロボットを、ソフトビニール(ソフビ)キットとして制作・販売していましたよね。なぜ、素材をソフビにしたのですか? 渡辺 まず、僕らの望む形のまま、100個生産したら100個とも同じ形でできてくるのがよかったんです。それと、ソフビなら「この大きさでこの値段」というイメージに、価格が収まってくれるから。ガレージキットの主流を占めるレジン素材は、当時から価格が高くて、製品の質が安定していないところが嫌でした。そういう意味で、僕は原型師よりはメーカー志向が強かったんです。
──渡辺さんはチームで原型を作っていて、「どうしても俺個人の作った原型でなきゃイヤだ」ということはありませんでしたよね? 渡辺 僕が欲しいと思える形ができ上がるなら、僕が作る必要は一切ありません。今でもそうですよ。そもそも、マックスファクトリーを作った動機は、ペーパーがけをしてくれる人が欲しかったから。“原型師”という自覚は、僕は薄いですね。
──どうしてそんなに、手伝ってくれる人が集まってくれたと思いますか? 渡辺 80年代後半は、テレビやゲームにキャラクターがいっぱいあふれていたのに、製品化される機会が減っていた時期なんです。「ないなら作ってしまおう」という機運が高かったので、音頭をとる人間さえいれば、同世代の人たちが集まってくれました。そういう「俺たちも何か作ろうぜ」というムーブメントのコアにはなれたんです。
──なぜ、渡辺さんはコアになれたのでしょう? 渡辺 とにかくね、僕は模型を作る人間としては、かなり特殊だったみたいですよ。人に見てもらいたい、よろこんでもらいたいという気持ちが、とても強かったんです。……こうして振り返ってみると、マニアだけをよろこばそうとはしてきませんでしたね。僕はポピー(編注:かつて存在していた玩具メーカー)の申し子なので、「マジンガーZ」の超合金を握りしめて、泣きながらテレビを見ていたんです。超合金ほど規模は大きくないけど、いま同じような仕事をやれているので、うれしいですよ。